下弦の月の夜


研ぎ澄まされた小刀のように、放たれた言葉の意味を掴めず、わたしは泣き濡れた顔のまま、ジャンヌを見つめた。

「勘違いしないでね。すぐにでも離縁して、国に戻ると言っているわけじゃない。

さっきも言ったけど、祖国はぼくを必要としていないんだ。

ただぼくたちは、もうこのままではいられないよ」

肩を掴んでいた手を離すと、ジャンヌは唇を噛んでさっと目を伏せた。

だが、数秒の沈黙ののちに顔を上げた時、その表情は既に笑顔へと変わっていた。

「まったくもう、そんなに泣かないでよ。君って、ほんとに涙が似合わない」

わたしの頬の涙をそっと指先で掬い取り、肩をすくめる。

「ねえアリーナ、かりそめの誓いに過ぎなかったけれど、それでもぼくらはつかの間、神に許された真の夫婦だったよね。

ぼくは君が好きだよ。

同じ王族の友人として、初めて持つことが出来た家族として、なによりも魅力的な女性として、君のことがとても好きだ。

そして、このサントハイムの大地を愛しく思ってる。

どこまでも続く高い空、豊かで広大な深緑の森と、風が泳ぐ輝かしい草の海。

まだこの国に来てそんなに時間は経っていないけれど、それでもこの空気が、緑が、人々が、ぼくの心を癒してくれるのが解るんだ。

さすがはお転婆姫を輩出した国だね。ここには大地に根付いた生命力がある。大気に神の息吹が溶けている。

ぼくはこの国を守りたい。そのために少しでも役立ちたい。心からそう思ってるんだよ。

だから教えて欲しい。今の君の目には、どんなに涙を落としても、決して揺るがない何かが宿ってる。

ねえアリーナ、君……クリフトと、この国を去るつもりなのかい」

「わたしには、クリフトと離れて生きて行くことなんて出来ないの」

わたしは言った。

吐き出す言葉ひとことひとことが、熱い塊となって胸の底に波紋を広げていく。

「彼はわたしの一部であり、全てでもあるの。

身体から心臓を切り離すことが出来ないように、わたしはクリフトと離れることが出来ない。

例えそれがこの地を捨てる選択になったとしても、太陽の光の下に顔をさらせぬ暮らしをすることになったとしても、


それでもわたしは、クリフトと共に生きていくことを選ぶわ」


「君は空を翔ける鳥だ」

ジャンヌは眩しいものを見るように目を細めた。

「鳥は自由の中にあってこそ、その翼をはためかせる事が出来る。

でもアリーナ、クリフトは違うよ。彼は神に愛された癒しの樹木だ。

大地に根を張り、慈愛の枝を伸ばして、疲れた人々を木陰で休ませてやるのが彼の役目だ。

根を切り土からもぎ離し、新たな世界へと連れていくことが、必ずしも彼の幸せに繋がるとは限らないよ。それでもいいの」

「クリフトは、わたしが幸せにする」

わたしは高らかに告げた。

「どんなことがあっても。もう決して傷つけたりしない。誓うわ」

「羨ましいなぁ、クリフトが」

ジャンヌは頬をふくらませ、両手を広げておどけてみせた。

「君達は決して切れない絆で結び付いてる。

妬けちゃうよ。いつかぼくにもそんな人が現れるよう、アリーナも遠くの地から祈っておいてほしいな。

……いつ、行くの」

「今夜」

「そっか。性急だな。今日こうして話したいと思ったのは、やはり虫の知らせだったんだね。

アリーナ、この国のことは心配しないで。国王陛下はまだまだお健やかだ。

譲位を急いだのは、ただ、君とクリフトを引き離そうとしたからに外ならない。

でもアリーナ、どうか陛下を恨まないで。

お父上は、戒律と娘への愛情の板挟みになり、とても苦しんでおられた。

陛下はアリーナのことも、そしてクリフトの事もとても好きだったんだ」

「解ってるわ」

わたしは頷いた。

声が震えた。

「そんなの、よく解ってる」

「ぼくがこの国を守るよ。君の弟として。家族として。だから安心して欲しい」

ジャンヌは笑顔になると、そっと手を差し出した。

握り返すと、命の息づく確かな躍動が伝わって来る。

愛することは出来なかったけれど、確かに彼はわたしの家族だったのだ。


「アリーナ、幸せにね」

「ありがとう。ジャンヌ」

涙で視界が歪み、濡れた霞の向こう側で、ジャンヌがもう一度微笑むのがかすかに見えた。

「幸せに。いつも思っているよ、君のことを」


そしてそれが、彼の姿を見た最後だった。
9/18ページ
スキ