下弦の月の夜
「そんなことはそもそも結婚の話が来た時から、無理なことだって百も承知だった。
世界を救ったアリーナ姫と、彼女に献身的に尽くした神官クリフトの恋物語は、三歳の子供だって知っていることだからね。
でも男女の愛がなくたって、家族としてなら。
アリーナ、君となら理解し合えると思ったんだ。
君もぼくと同じように、王族の血を厭うている。
いつもどこかで、ここは自分のいる世界じゃないと苦しんでいる。
ぼくたち二人手を取り合って、他の誰も理解することのない痛みを、わかち合いながら生きて行けたなら。
それにどのみちクリフトは聖職者だ。結婚なんて出来ないし、そんな身分でもない。
実はね、昨日こっそり礼拝に紛れ込んで見たんだ、彼を。
あんなに痩せて、でも少しも美男子ぶりは変わらない。意外だよ、君が面食いだったなんて。
それともクリフトは、君だけには特別優しくて魅力的だとでもいうのかな。
だとしたらそれはベッドの中で?」
挑発に乗ることはない。
わたしは表情を変えずに、黙ってジャンヌを見つめていた。
彼は愛に飢えた幼い日のわたしの姿であり、そしてもしかしたら、クリフトと出会わずに生きてきた、現在のわたしの姿だった。
側にいるだけで痛いほどの寂しさが棘となり、全身を鋭く刺し貫く。
もしも彼との出会いがこんな形ではなく、例えばわたしたちが仲のよい姉弟だったとしたなら、
二人はきっと彼の言うように、互いの痛みを自分のものとして感じながら、共に生きていくことも出来たのだろう。
でも、そうじゃない。そうじゃないのだ。
「わたしは、愛する人と苦しみを分かち合いたくなんかないわ」
言った途端に何故か、自分でも驚くほど痛切な哀しみが込み上げた。
「本当にごめんなさい、ジャンヌ。
わたしは、どうしたってわたしと言う人間でしかないの。
確かに、もし愛する人が傷を負えばわたしは命をかけてでも、その傷を癒したいと思う。
彼の目が傷つき曇らないように、いつも傍にいて守ってあげたいと思う。
でもわたしは、どうしたって彼にはなれない。
彼の痛みや苦しみを、そのまま同じように感じることは出来ないの。
わたしに出来るのは、傷を負った彼に黙って手を差し延べて、役にも立たない笑顔を向けることだけ。
苦しみもがく彼の姿から目を逸らさず、ただまっすぐに見つめ続けることだけ。
たとえ傷を舐め合うことが出来たとしても、身を擦り寄せ合うことが出来たとしても、
人は、愛する人の痛みを共に負うことなんて、本当は出来やしないのよ」
鮮やかな朝の光がようやく、灰色の静寂をたたえた城の中に忍び込んで来る。
流れ落ちる涙を見て、ジャンヌは怯えたように身じろぎした。
「……ずるいよ、アリーナ」
頼りない声が震える。
「今更そんなふうに、ぼくを拒絶するようなことを言って。
クリフトを苦しめてるのは、ぼくじゃない。君じゃないか。
だったらなぜ……最初から、ぼくを受け入れられないのならなぜ、
君は、あの夜ぼくと」
「馬鹿だったの」
身体がばらばらに砕けてしまうような後悔に、激しく息が詰まった。
だがこの痛みこそ、なによりもわたしがが背負わなければならないものだった。
「どんなに偽りに触れ合ったとしても、決して真の愛はそこに通わないという事実があれば、あなたは諦めてくれると思った」
「君はなんにも解っちゃいない!」
悲痛な叫び声が響き、ジャンヌはわたしの両肩を揺さ振った。
「こう言えば満足なの?たった一晩で、骨の随まで思い知らされたと。
祭壇で神聖な誓いを交わしたはずの新妻は、爪の先までもう他の誰かのものだったと!
君はいつも、年下のぼくを子供だと言って馬鹿にするけど、何も知らない残酷な子供なのは君だ。
君の考え無しな振る舞いがいつも周囲を悩ませ、ぼくを傷つけ、何よりもクリフトを苦しめてる。
もうこんな思いはしたくない。ぼくはただ、愛されたいだけなんだ。家族が欲しかっただけなんだ。
だからアリーナ……これじゃぼくらはもう駄目だ。
君はぼくには、相応しくない女だ」