下弦の月の夜
下弦の月が、淡く白金に光り始めた西の空に流れ落ちる砂のように、跡形もなく溶けては消えて行く。
いつものように化粧石に片足を掛けて壁を飛び越え、裏口から城へ入ると、わたしは足音を忍ばせて、寝室へと続く長い廊下を歩いた。
まだ城内は薄暗く、相変わらず作為的なまでに人気はない。
敷き詰められた赤い絨毯も、所狭しと壁に並べられた、装飾用の象眼細工の甲冑も、
いつもは全て無味乾燥ながらくたに見えていたものが、今日だけは何かを訴えかける色彩を帯びているように感じる。
(最後なんだわ)
それは不思議なほど、わたしに何の感慨も呼び起こさなかった。
(なんて長いこと、わたしはこの黄金の檻の中で、翼をもがれて苦しんで来たんだろう)
太陽が当たり前に空にあるように、あの蒼い瞳を傍らに感じることが出来なくなってしまった時から、もうここは、わたしのいるべき場所ではなくなってしまっていたのだ。
「アリーナ」
その時、垂れ込めた沈黙を、まだわずかに高さを残した少年の声が破った。
王族専用寝室の巨大な扉の前に、人影が立っている。
それは薄闇の中でも見紛うことのない、かつて十字架の前で婚姻の誓いを交わした、夫と呼ばれる人間の姿だった。
「どこに行ってたの。……クリフトのところ?」
「ジャンヌ」
わたしは呆然と立ちすくんだ。
「眠れなくて、風に当たりに行ってたのよ。
どうしたの、ずいぶん早起きなのね」
「無理しなくていいんだ」
ジャンヌは首を振ると、まるで道化師のように大袈裟に肩をすくめてみせた。
「世界中の吟遊詩人が唄う運命の二人の仲を、邪魔するつもりなんてぼくにはないから」
「散歩したら、ようやく眠くなって来たみたい。頭も痛いし、横になるわ」
わたしはこめかみを指で 押さえ、素早くジャンヌの隣をすり抜けようとした。
「いつもそうなんだね」
静かな悲しみに満ちた声がぽつりと呟く。
「君は決して、ぼくを見ようとはしないんだ。
この結婚をどれほど君が嫌がってるのか、ぼくはよく知ってる。
何故アリーナ姫を、想い交わした従者の神官と一緒にさせてやらないのかと、サントハイムじゅうの民が不満に思っていることも。
でもぼくは、離縁なんかしないよ。ぼくにはもう帰るところがない。
ボンモール王弟の第三公子なんて中途半端な身分に生まれたぼくには、祖国にもどこにも、もう居場所なんかないんだ」
「あなたはとても優しいけれど、いささか被害者意識に過ぎるわ」
わたしはジャンヌの肩を仕方なく軽く撫でた。
「エンドール王はともかく、ボンモール国王もリック王子も、とても思慮深く信義に厚い、器の大きな方達よ。
それはあなたが一番よく解っているはず」
「その信義に厚いお方々が、時として身近な血族にどれほど非情な態度を取ることが出来るのか、アリーナなら理解してくれると思ったけど」
ジャンヌ王子はふて腐れたように唇を尖らせた。
「とにかくぼくはもうこのサントハイムを、自分の終の住み家だと決めたんだ。
国に帰るつもりなんてないよ。あそこは嘘と欺瞞に満ちた国だ。
エンドールと姻戚を結び、表向きはいかにも友好を保っているけれど、どちらも水面下じゃどうやって相手を食ってやるか、牙を研いでは虎視眈々と狙い続けてる。
いずれどちらかの国が併合されるか、または戦になるとしても、
世継ぎのリック一人に求心力を持たせるためには、ぼくみたいな傍流の半端王子は、邪魔でしかない存在なんだ」
「ジャンヌ、わたし本当に調子がよくないの。このくらいでいいかしら」
わたしは力無く言った。
これ以上、彼の繰り言を聞いていたくはなかった。
そしてわたしもまた、哀れなジャンヌ王子と同じように、まだあまりにも若く愚かで痛みを知らぬ、鈍感な小娘でしかなかった。
薄暗がりの中で、必死に縋り付いてこようとする少年の瞳を感じながらも、
すでにわたしの心はこの地を離れ、愛しい人と向かうはずの新たな暮らしへと、鳥のように無責任に羽ばたいてしまっていたのだ。
「なにも、君にぼくを好きになれって言ってるんじゃない」
ジャンヌは、わたしを上目使いに見つめながら言った。