下弦の月の夜


「……帰る」


沈黙に耐え切れずに、わたしは椅子の上に置いた革のマントを素早くまとった。

「明日の夜、また来るわ。何か食べ物を持って来るわね。一緒に食事しましょう。

それ以上痩せたらお前、香炉に沈む聖なる塵となって、祈りを捧げているうちに風に吹かれて消えてしまうわよ」

「それも、いっそ気楽で悪くありませんが」

「なにがいいかしらね。パンにチーズ、それから肉と、焼き菓子も持って来るわ。

大体クリフトは、いつも粗食にすぎるのよ。もう少し動物性のものも食べないと……」

「逃げましょうか、二人で」


唐突な言葉だった。


わたしは口をつぐんで、クリフトを見つめた。


蒼い瞳は、凪の海のように静かでゆるぎない光をたたえていて、わたしはすぐに、彼が本気であることを悟った。

「……いつ」

「月が帰り、もう一度東から昇る今夜」

「行き先は」

「間もなく冬が来ます。南がいいでしょう。

出来れば大陸を越えた、未開の……誰も知る者のいない土地へ」

「そこは、自由結婚の認められている場所かしら」

「そう願いたいものです」

「時々は、鍛えた武術の腕を思い切り振るいたいわ」

「山賊とでも、獣とでも。物足りなければわたしがお相手致します」

「お前が、わたしに太刀打ち出来るかしらね」

「僭越ながら、わたしとて神から生と死を司る呪文を授かった身。侮って貰っては困ります」

「知ってる」

わたしは囁いた。

「知ってるわ。お前は誰よりも強い」

「アリーナ様」

「わたし、クリフトになら……殺されてもいいの」

言葉は甘美な雫となり、夜明けの寒さが忍び込む狭い石造りの部屋の中を、流れ星のようにつかの間の閃光を放って消える。

後には、青紫の空にもう殆ど溶けかけた、淡く微かな月の光だけが残った。

「待ってた」

わたしは、そっとクリフトにくちづけた。

涙が頬を伝い落ちた。

「ずっと待っていたの。

お前がそう言ってくれるのを。ずっと、ずっと昔から」

「すぐに追っ手が掛かることでしょう」

クリフトは静かな声で言った。

「もし捕らえられればわたしは無論のこと、王女である貴方様とて只では済みません。

良くて王位継承権剥奪、悪ければ」

「お前と共にいられないのなら、わたしは死んでいるも同じよ。

何も怖くない」

「雨を避け暖を取り、その日の糧を得る暮らしすら、ままならぬかもしれません」

「この19年間、風邪ひとつ引いたことがないわ。

それにわたし、魚を取るのは得意よ。狩りだって出来る」

「わたしには、空間を移ろう魔法は使えません。

馬も目立ちすぎます。全て徒歩での旅となりますが」

「誰に向かって言ってるの。

お前の恋人は「鋼の王女」お転婆姫アリーナよ。千の山と海さえ、一夜で越えてみせるわ」

そこで初めて、クリフトはどこかが痛むかのような表情を浮かべた。

「お父上と相まみえるのも、おそらくこれが……今生最後となるでしょう」

瞬きほどのわずかな沈黙が、見つめ合う二人の間を走る。

わたしは頷いた。

「解ってる」

「……では」

先に目を逸らしたのは、クリフトの方だった。

「旅の支度は、全てわたしが整えます。

アリーナ様はいつもと同じように、夜が更けたらこちらへいらっしゃいますように」

「必要なものは」

「特には。出来れば今日のうちから侍女たちに、体調が優れぬゆえ、明日は朝食を取らず人払いして昼過ぎまで休んでいたいと、命じていただければ」

「なにか他に、すぐに見つからぬための、時間を稼ぐ方法はあるかしら」

「なくも、ありませんが」

クリフトは暗い目で、宙を見つめた。

「それは賭けでもあります。この逃避行が、上手く行くかどうかの」
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