下弦の月の夜
クリフトは無言のまま、わたしを見つめていた。
まるで目の前に存在しない蜃気楼を見ているような、掴みどころのない視線は、わたしをひどく不安にさせた。
水のように部屋を侵食していく沈黙に押し潰されまいと、急いで再び言葉を押し出そうとした時、クリフトが静かに口を開いた。
「アリーナ様」
「なあに」
「この国では王族同士の婚姻しか認められていない事は、ご存知ですか」
「そんなの、五つの時から知ってるわ」
「では司教となるべき人間は神に身を捧げて、終生独身を通さねばならないという事は」
「それも八つの時に。親切な侍女達が教えてくれたのよ、噛んで含めるようにね」
わたしは苛立って言った。
「何が言いたいの。
まさか今更、やはりわたしたちの関係を続けていくのは無理ですとでも?」
「そうではありません」
クリフトは疲れたように首を振った。
「どちらの規律も、このサントハイムにあって古来から公然の事実。
つまり私たちはこの国にいる限り、身分の上でも法律でも、また神の御心によっても、絶対に結ばれることのない間柄だと言うことです」
「この世の中に、絶対なんて存在しないわ」
わたしは嘲るように鼻を鳴らした。
「例え神様の教えだってね。エンドールには妻帯者の司祭もいる。恋を楽しむ尼僧だっていたわ。
だからといって彼等は少しも堕落することなく、日々神への勤行を誠実に全うしていた。
もしかしたら中には恋愛に我を忘れ、勤めを疎かにしてしまう者もいるのかもしれない。
でもねクリフト、それは直接的には、恋や愛だののせいではないのよ。彼等自身の資質の問題なの。
本来、恋をすることで生まれる慈愛や恭順の心は、信仰心とはなんらぶつかる事はないものだわ。
むしろそこから生まれる嫉妬や独占欲も含めて、神への祈りへと昇華させる、それこそが聖職者たるものの義務であり、矜持だと言えるのではないかしら」
「なんとも素晴らしき訓示ですね。
今すぐに武術の稽古を止め、あなたこそがこの教会の司教となるべきだ」
クリフトは渇いた声で褒めたたえた。
「そんな理屈が通るものなら、とっくにこの国の教会制度は変わっています。
万世一系の王国であるサントハイムは、多民族国家のエンドールとは違う。
現人神を謳う王家は、教会が力を持つ事を決して好まない。
あらぬ方向へ民衆を扇動する恐れのある種には、水をやらないのが一番です。
戒律の厳しさゆえ、国内の神学校における司教志望者は、年々減り続けている。
成年を越えた神官も、わたしが司教の位階へと上がってからは、ついに一人もいなくなってしまった。
このままでは、サントハイムの神教道は衰退するばかりです。そればかりか」
「信仰を弾圧する傾向の王家に民衆の不満は募り、
ただ王女として生まれたというだけで来年、弱冠二十歳でこの国の支配者として即位する愚かな一人娘へと、その怒りの矛先は向かってしまう」
クリフトは眉をひそめてわたしを見た。
「アリーナ様は愚かなどではありません」
「世間はそう思ってはいないわ。皆がこう言ってる。
魔王を倒すのにその粗暴さは役立ったけれど、ひとたび平和が訪れてみれば、ただ城の壁を蹴り破るだけしか能のない、脳みそまで筋肉のうつけ王女だと」
「わが姫君は鷹のように賢く強いお方です。
わたしは誇り高く、自らを信じる気概にあふれた貴方をお慕いしています。
二度とそのようなことをおっしゃられませぬように」
「ねえクリフト、なんだかその言い方、筋骨逞しい男に恋をする、か弱い乙女の台詞みたいに聞こえるわよ」