下弦の月の夜
「わたしには朝日の訪れと共にここを立ち去る貴方を、なりふり構わず引き止める事も出来ない。
かといって神に捧げたこの命を、思いと共に自ら潔く断ち切る事も出来ない。
焼けるような心で貴方を憎み、この身がちぎれるほど自分を呪っても、それでもわたしは、結局なにひとつ選ぶことが出来ない。
貴方が来れば幸福に震え、貴方が去れば喪失感に苦しみ、二度と会わないと決意して扉を閉めた同じ手で、五分後にはもう鍵を開けて貴女を抱いている。
わたしは意志を持たずに己の欲望だけを食い荒らす、不吉な蝙蝠なのでしょう」
「そんなふうに、自虐的な事を言ってみせたって」
わたしはわざと居丈高に言った。
「わたしは絶対にお前から離れない。
憎むなら好きなだけ憎めばいいわ。
お前が神の教えに縛られているように、王家の鎖に捕われたわたしにも、最初から選ぶ道なんてどこにもないの。
だったら蜘蛛の糸に搦め取られたちっぽけな羽虫同士、せいぜい命尽きるまで、蜜を求めてもがくとしましょう」
「わたし個人の覚悟ならば、とうに出来ていますけれど」
クリフトは力無く呟いた。
「ただ貴方が不義密通の罪人となる、それだけが」
「不義密通」
わたしはまるで初めて聞く呪文のように、たどたどしく繰り返した。
「いい、クリフト。わたしが初めてお前に会ったのは、洗礼を受けに教会を訪れた四才の時よ。
五つ年上のお前は、幼いくせにいっぱしの司祭よろしく法衣をまとって、顔を真っ赤にしながら「天使のようなアリーナ王女様に、どうか神のご加護を」と叫んだわ。
おろしたての衣から漂う白檀の香りや、ステンドグラスの空と同じ色のお前の目、まだ甲高かった鈴のような声まで、今でもはっきりと思い出すことが出来る」
「猫の月の第二日曜日、聖祖サントハイム降臨祭の日でしたね。
わたしもよく覚えています」
「それから15年間、ぴかぴかに磨き上げた水晶玉みたいな心で、真摯にあなたを思い続けたつもりよ。
あなたがいなければ、わたしは牢獄のような城の中で、ここまで生きながらえることすら出来なかった。
母を失い、忙しい父には半ば存在を忘れられ、わたしを頭に冠を乗せた、高級な人形程度にしか見ていない家臣に囲まれて、
毎日少しずつ、きらびやかな黄金のナイフで、命を切り取られているように感じてた。
あなたがわたしをここまで生かしてくれたのよ。
そんな思いを不義密通と呼ぶなら、この世界中で考えなしなたんぽぽみたいに愛を咲かせている恋人達は全て、女神ルビスの怒りを百回も受けるがいいわ」
「物騒なことを」
クリフトは額の上に手をかざし、小さく十字の印を切った。
「教会は地上で最も神に近い場所です。呪詛の言葉さえ届いてしまう」
「だったらその前にひとつだけ、聖サントハイムの末裔の唯一にして切なる祈りを、どうかその高潔なお耳に入れて頂きたいものだわ」
わたしは挑戦的に声を張り上げた。
「王女として多少の贅沢はあったかもしれないけれど、わたしは今までごく真面目に生きて来たつもりよ。
大切な場面では、決してお父様に逆らったりしなかったし、魔王の手からこの世界を救うために尽力もした。
わたしの望みはただひとつ。
玉座を空席にしないためだけに行われた下らない結婚を今すぐ無効とし、真に愛する者と共に生きて行く事を許して欲しい。
わたしからクリフトを奪わないで欲しい。それだけなの」