初夜



所変わって、サントハイム王城の最上階、おてんば姫の部屋。

「どうです、アリーナ様。やはり純白はもちろんですけれど、大人の女性らしくプラムのオーガンジー。

それともオレンジで、チュールとレースをたっぷりと。コーラルピンクのホイップも素敵だわ。

ああ、迷いますわ。早くベールを縫い始めたいし、どれに致しましょう」

「あ、あのね、カーラ……。

クリフトはまず、王城暮らしに慣れるためこちらに越して来るのであって、神官職を離れるための様々な儀式や書面の手続きも必要らしいし、まだまだ婚礼なんて当分先のことで」

だからウェディングドレスを選ぶなんて、あまりに気が早すぎることなのだ。

何度も言ったが、すっかり浮かれた忠実な侍女の耳には全く入らないようだった。

洋裁師に渡された布地見本に夢中になっているカーラを見て、アリーナは肩をすくめた。

(……結婚式、か。わたしとクリフトの)

幼い頃から共にいた彼とようやく想いを確かめ合うことが出来て、嬉しい。

なのに婚礼という儀式に皆が色めき立つと、理由もなく気が重く感じられるのは、どうしてなのだろう。

ドレスの色が白でもプラムでもオレンジでも、正直あまり興味はなかった。

何色でも構わないけれど、ただ、彼に綺麗だと思ってもらいたい。

「……ねえ」

きらびやかな布地の切れはしに目を落とし、アリーナはカーラに尋ねた。

「こうやってドレスを選んで、お洒落して。結婚って一体なんなのかしらね、カーラ。

わたしは、クリフトが好きなだけ。これからもずっと一緒にいたいだけ。

それなのに今や国中が新王の誕生だ、二十年ぶりのロイヤルウェディングだって大騒ぎで、張本人のわたしがどんどん置いて行かれてる気がするの」

「まあ、そのようなご心配を?姫様ともあろうお方が、マリッジブルーですかしら」

カーラは驚き、すぐに安心させるように笑った。

「大丈夫ですよ、アリーナ様。婚礼なんて王族も市井の民も関係なく、主役は皆そんなものです。

結婚式は虹色の突風みたいなもので、ご本人様方が戸惑っているうちにあっという間に過ぎ、綺麗な痕だけ残して二度と戻って来ません。

それに姫様はともかく、クリフトさんはきっと置いて行かれてるとは思ってらっしゃいませんよ」

カーラは微笑んだ。

「先ほどご登城なさったのをお見かけしましたが、とても澄んだ目をして、凛とした良いお顔をなさっていました。

これから自らが進むべきあらたな道へ、既にお心は定まっているのでしょう。

婚礼の儀式とは、女性にとってはまぼろしの夢物語の一頁。でも男性にとっては、既に厳しい現実の序章。

女性の中には夢だと気づくのに時間がかかる方もいますが、男性はそうも言っていられません。

家族を守るための責任を負い、働いて生きる糧を得なければならないからです。

だから結婚式という仮初めの一瞬くらい、ひとときの幸せに思う存分酔いしれましょう」

「なによ、その言い方。それに夢物語ってどういうことなの?

まるでわたしがいつか消えてなくなる幻想に浸ってるみたいに」

「それでいいのですよ、今は。今はまだそれが許される時です。

女性にとっては、子を成し育てるという後の大きな責務を果たすために、その夢のような時間が必要でもあるのです。

さあ、だからご一緒に、一生に一度の素敵なドレスを選びましょう。

やはり純白、それとも大人らしくプラム、はたまたオレンジにコーラルピンク……」


すべてが夢で、それでも現実。


ただ一緒にいたいと願うことと、結婚するということは、どうやら少し違うらしい。

うっとりとドレスの種類を繰り返すカーラを横目に、アリーナは深いため息をついた。








「……と、いうわけなの」

アリーナが話し終えると、傍らに座っていたクリフトは声を立てて笑った。

「至言ですね。男のわたしにはよく解りかねますが……婚礼とは、女性にとってまぼろしの夢物語なのですか」

「知らないわ。わたしだって、まだしたことがないもの。でもカーラは言ってた。

いつか必ず醒める夢なんかより、本当は醒めてからの現実をふたりでどう乗り越えていくかが肝心なんだって。

だから夢のまっただ中の結婚式は、出来るだけ浮かれて楽しんだ方がいいんですって」

「海千山千のカーラさんがおっしゃると、奇妙な真実味がありますね」

「夢です、いつか醒めますっていいながら、綺麗なドレスを選ぶ。その矛盾がわたしにはよく解らないわ」

「醒めれども、願わくば吉夢であれということでしょうか」

クリフトは楽しげに頷くと、「では期間限定の夢の住人として、いずれ去る祝祭を思い切り楽しみましょう、姫様」と笑った。

茜色の西日が、天窓から忍び込む夕暮れ。

王女との婚姻、そして次期国王即位が決まったクリフトが教会から王城へ居を移し、ふたりで過ごす初めての夜。

件のお芝居事件ののち、広間の天井だけではなくなぜかアリーナの部屋の壁まで壊れていたことが発覚し、先刻ようやく修理が終わったのだが、新しく打ちつけた板を見るとクリフトは顔を赤らめて、「ここ、いっそ扉をつけたらどうでしょうか」と小さな声で呟いた。

「ね、クリフト」

「はい」

「お前はどう思うの。わたしたちがこうして、けっ……」

アリーナは赤くなって言葉に詰まったが、ひと呼吸置いて続けた。

「けっ、結婚することを。やっぱりカーラみたいに、いつか醒める夢だって思うの?」

「うーん、わたしもまだしたことがありませんから、それはなんとも」

クリフトはしばらく考え込んで言った。

「長かった教会の勤務で得た見聞によると、結婚とは幸福と同時に、様々な問題をも引き起こす制度であるようですね。

ですが、これはあまり参考にはなりません」

「どうしてよ」

「問題を抱えた方々しか、教会に御相談にはやって来ないからです。

何の悩みもなくお幸せな御夫婦もあまたいらっしゃるでしょうし、一概にこうだとはなかなか」

「お前はどうなの、クリフト」

アリーナは思わず尋ねた。

「他人のことじゃなくて、お前はどう思うの?クリフト。

わたしたちの結婚も、いずれ必ず醒める夢物語なのかしら?」

するとクリフトは穏やかに微笑んだ。

「幸福な夢のさなかにある時、人は醒めることを考えはしないでしょう。夢は現実になった時点で、もう夢とは呼ばないものです。

たとえ夢でもうつつでも、わたしのいるべき場所は決まっている。それにわたしは、夢を見るのは好きですよ」

「わたしだって。でも、どうせならいい夢じゃなくちゃ嫌だわ」

「貴女様が描く夢がいつも希望に満ちたものでありますように、わたしがお傍で番を致します」

クリフトは天窓を見上げた。

「いつも、あなたの傍らに」

アリーナはクリフトを見つめると、同じように顔を上げた。


空の向こうには星。


本当だ、隣にいると同じものが見える。


わたしはいつも背伸びして彼を捕まえようとして、彼はいつも背を屈めてわたしに近づこうとしていたけれど、これからはそうじゃない。


隣に立って肩を並べて、同じ未来をふたりで。


「ねえ、日が暮れたわ。ふたりで一緒に過ごす初めての夜。本で読んだけど、これって初夜っていうのよね。

今がわたしたちの初夜だね、クリフト」

アリーナが言うと、クリフトはぎょっとした。

「なんの本をお読みになったのですか、一体」

「マーニャが貸してくれたの。確か、ハーレクインロマンスとかいう」

「そ、そのような世俗の書物、まだ姫様にはお早いのではないかと」

「なによ、子供扱いして。わたしだってもう大人よ。

でも本当は、難しい言葉が多すぎて途中で止めちゃったの。

だから結婚したふたりが初夜をどんなふうに過ごすか、まだよく知らないんだけど」

「そ、そうですか」

クリフトは胸を撫で下ろすと、立ち上がって窓辺に歩み寄り、アリーナを促した。

「姫様、こちらへ」

「なあに?あっ」

アリーナは開け放った窓から顔を出し、弾んだ声を上げた。

「伝説のムーランルージュと同じ、赤い屋根の大劇場!マローニ支配人のサラン歌劇舞台が、いよいよ完成するのね。

これからサランはもっと賑わい、このサントハイム城にも朝晩様々な音楽が聞こえてくるでしょうね。楽しみだわ!」

「こけら落としを見に行きましょう。あの方の作ったお芝居、国中に響く幸せの歌の始まりを」

「その時は楽団も揃うのかしら?わたし、また会いたいわ。お前の友人の、派手で奇妙な声のあの楽師ボロンゴに」

クリフトは動転して咳き込んだ。

「そ、それはどうでしょうか。彼も色々と、忙しいようですし」

「どうしたの、クリフト。急に青くなって。さてはお前、焼きもちを妬いたのね」

アリーナは嬉しくてならないように頬を紅潮させて笑った。

「大丈夫!心配いらないわ。わたし、ずっとお前の隣にいる。

お前以外、なにひとつ目に入らないなんて言わない。だってわたしの目はいつも前に向けられていて、この世の全てを映すんだもの。

わたしの見つめるすべては、お前と分け合うもの。

嬉しいことや楽しいことや、辛いことや悲しいことも、いつもお前と分かちあって生きて行くもの。

だってわたしたち、立ち向かう剣と癒し守る杯で……、


きっとどこまでも凸凹なふたり、なんだもんね!」






ふたりで同じ未来を見つめる、初めての夜は始まりの夜。

夢ならば醒めないでくれとも、夢が叶ったらいいなとも、もう思わなかった。


だってわたしたちは夢じゃない、確かな今を生きている。


「では初めての夜に、これを」

クリフトが懐をごそごそと探り、取り出したものを見ると、アリーナの瞳が輝いた。

「嬉しい!また教えてくれるの?」

「はい。まだまだ世界中に、わたしたちの知らない歌はたくさん溢れていますから。

それにこれは楽器であって、人にぶつけるものじゃないということを、わたしの大切なお方に教えて差し上げなくてはなりませんからね」

ウグイス色のオカリナを持ち、もう片方の手でクリフトが顎を指差すと、アリーナの頬が赤く染まった。

クリフトは微笑んで片目をつぶり、オカリナを唇にあてた。




「いつもいつでも、未来へ奏でる幸せの音楽を。




あなた専属の楽師は、いつだってわたしです。アリーナ様」





-FIN-


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