初夜
―――Sideクリフト
「クリフト。……お前、もしかして泣いたの?」
ミネアさんが去っても、わたしたちはしばらく黙っていた。
だがやがてアリーナ姫はわたしを覗き込んで、訝しげに尋ねた。
「よく見たら、ウサギみたいに目が真っ赤だわ。どうしたの?なにかあったの?」
わたしは静かにほほえんだ。
「先ほど……父親が、出来たんです」
「父親?」
「はい。両親を巡礼中の事故で亡くし、天涯孤独の身となって以来、肉親を持つなどおよそ十五年ぶりのことです」
「よくわからないけど……それで泣いちゃったの?」
きょとんとするアリーナ姫に、わたしは微笑んだ。
「御前にて失礼だと知りながら、自分でも驚くほど、感情を乱してしまいました。
知らなかったのです。失くしたと思っていたものを、また手にすることが出来るなんて。
しかもそれは、かつての痛みをいとおしい思い出に変える、決して消えない温もりの灯だった」
「どういうこと?」
「わたしはいつだって、独りではなかった。
今ここにあるものも、もうここにはないものも、すべてがわたしを形作るかけがえのない愛だったということです」
わたしは目を閉じて、そっと胸を押さえた。
「答えはいつもわたしの傍に横たわっていたのに、気付くのがこんなにも遅くなってしまった。
だがこうして神の住みかと呼ばれる場所から去ることを決めて、ようやく解ったような気がする。
神は教会に佇むのではなく、美しく飾られた祭壇や、難しい聖書の言葉に隠れているのでもない。
誰かが誰かであるために、必要なすべて。
「今」を支えてくれるもの。
わたしにとってはなによりそれが、神のいる場所なのです」
「もう!全然わかんないわよ」
アリーナ姫はぷっと頬を膨らませた。
「お前もミネアも、回りくどい喋り方がすごく好きみたいね。
そうやって難しい言葉をもったいつけて口にして、わたしを置いてけぼりにして、お前は本当は意地悪な人間なんだわ」
「貴女が好きです。アリーナ様」
わたしは揺るぎない言葉で告げた。
「これまでも、これからも、貴女だけが。
貴女はいつだって、迷い立ち止まるわたしの光り輝くたしかな道しるべだった。
どうか生涯、この身を貴女に捧げることをお許しください。
そして……申し上げるのが遅くなりましたが、そのお召し物を着たお姿は、この世の誰よりお綺麗です」
アリーナ姫の目が見開かれた。
「……クリフト」
「も、申しわけありません。身の程をわきまえず、つい口が過ぎました。
色々なことがあり過ぎて、愚かにも気が高ぶってしまって」
慌てて頭を下げると、小鹿のような瞳がみるみる潤んで膨らむ。
だが弓張月型の眉は悲しげに下がり、瞼のはしから涙がぽろぽろとこぼれ落ちて、彼女は両手で顔を覆うと、なぜかわあっと盛大に泣き始めてしまった。
「クリフト……ごめんなさい!」
「え?」
アリーナ姫は肩を震わせて泣きながら叫んだ。
「そんなつもりは決してなかったの。本当よ、信じて!
こんなふうに感じたのは、今日が生まれて初めてだったの!」
「な、なにがですか?」
「でも、どうしてもかっこいいなって思ってしまって……あ、あんまりクリフトに似てるから、見てるだけでどきどきしちゃって、わたしもう二度と、胸を張ってお前だけが好きなんて言えないわ。
だってわたし……お前というものがありながら、う、浮気してしまったのよ……!!」
わたしは口を開けてまばたきした。
思いもよらぬ告白に、言葉が継げなくなりしばし硬直する。
浮気?
ああ、あの海で泳ぐ時に体を入れる、まるい輪っかのことですね。
違う、それは浮き輪だろう!
あのにょろにょろした、舌の長い生物のことですか。わたしもどうも苦手で……。
それも違う、うわばみだ!
そうか、あの事ですね。どろんこ遊びやお絵かきをする時に「汚れるからこれを着るんだよ」って、おばあちゃんがよく着せてくれた……。
違う違う!それはうわっぱりだ!
っていうかどんどん離れて行っている!
「あ、アリーナ様、浮気とは」
困惑して問い返すと、アリーナ姫は泣きながらこくんと頷いた。
「お前以外の男の人を、素敵だなあと思ってしまったの」
「アリーナ様が?」
「うん。何を言っても言い訳にしかならないけれど、どうしてもその人が、お前に見えて仕方なかったの。
あんまりそっくりで……おかしな格好をして、声も雛鳥みたいで変だったけど、眼鏡の奥の瞳がすごく優しくて……」
アリーナ姫はうええっと泣き声を上げた。
「ああ、こんなの最低だわ!わたしったら、こともあろうにクリフトに向かって浮気相手の魅力を説いているのよ。
なんてことなの。こんな卑怯な人間にだけは絶対になりたくなかったのに!
最低!最低!わたしの馬鹿馬鹿、馬鹿ーっ!」
握り拳で自分の頭をぼかぼか叩くと、ふいに泣き顔を険しくして立ち上がる。
「ア、アリーナ様……?」
「駄目よ、こんなんじゃ足りないわ。わたし、どうしても自分が許せない。
だって教会で女の人に取り囲まれているクリフトを見た時、怒りにかられたわたしが掴んだのは鉄の爪だった。
わたしを捨てて他の女性に走った、憎いお前の命をひと思いに奪おうと」
わたしはぎょっとした。
「命を?!いつ?」
「恋愛において、裏切りは万死に値するのよ。愛する者の心を弄ぶ、世界中にそれ以上の罪はないわ」
アリーナ姫は据わった目で自分の拳を睨んだ。
「だから、わたしもこの上は自らを」
「わーっ!ち、ちょっと待って下さい!」
わたしはアリーナ姫の両肩を掴むと、慌てて腕の中にひしと抱え込んだ。
「ど、どうか、おかしなお考えは」
「止めないで、クリフト。わたしは自分の不貞には自分で決着をつけるわ!」
「不貞ではありません!きっと、それは不貞ではないのです!」
「え?」
アリーナ姫はわたしを見上げた。
わたしは彼女を引き寄せると、深く息を吸って、なんとか自分を落ちつけようと努めた。
(姫様が浮気)
一体なんのことを言っているのか、さっぱり解らない。
わからないが、きっとこうだ。
あの騒動の中、彼女の婚約者候補として王城にやって来た天空の勇者の少年。
いつもと違う貴族の正装に身を包み、凛々しく佇む美貌の彼に、アリーナ様は図らずも惹かれてしまったのだろう。
あの妖艶な流し目で「結婚してくれ」と言われて、心を動かされてしまったのだろう。
だが本来、浮気とは結ばれている恋人同士の間に起こりうる事件で、わたしとアリーナ様のように関係の曖昧な君臣の間柄での心移りを、そもそも浮気と呼ぶのだろうか?
「……クリフト、怒ってる?」
「いえ」
わたしは少し考えてから言った。
「怒っては……いません」
「じゃあ」
アリーナ姫の声が不安げに震えた。
「お前はわたしを許してくれる?
それともわたしたち……もう」
「許すも何も、貴女に心移りを謝罪されるなどということ自体が、わたしにとっては夢のまた夢の出来事のはずだったのですから。
それになにより、あの方の魅力には叶わない。あの方なら誰だって、どんな女性だって心惹かれるだろう。
それはとても理解出来るような気がします」
「あの方って……ああ、そういえばお前たち、確か知り合いだったって言ってたものね。
ふたり並んだらきっと、双子の彫像みたいに似ていただろうけど」
「まさか。わたしとあの方のどこが似てるというんですか」
「いいえ、びっくりするくらいそっくりだと思ったわよ。わたしは」
噛み合わない会話の後、アリーナ姫は神妙な顔をして黙り、ほおっとため息をついた。
「だから……素敵だな、と思ったの。まるでクリフトみたいだな、って。
だけど好きな人の面影を他の男性に重ねるなんて、やっぱりいけないことだわ。
わたし、これからは絶対にお前以外に目を向けたりしない。
クリフト、信じて。わたしの前に、どんな人が現れたとしてももう……」
「アリーナ様」
わたしは腕を伸ばして、アリーナ姫の頭を自分の胸にそっと押しあてた。
「どうかもう、お気になさらずに」
「どうして?」
「貴女のお心は、すべて貴女のものです。わたしには貴女のお心を手に入れたと言いきれる自信が、まだありません。
だからもし貴女のお気持ちが他に向かったとしても、それはわたし自身の至らなさが原因でしかない」
わたしは床に膝をつき、アリーナ姫の体をそっと抱え上げた。
腕の中の彼女は、濡れた瞳で心もとなげにこちらを見上げて来る。
(小さい)
細い体。
なんて小さいのだろう。
こんなにも強靭で健やかで、眩しいほど生命力を放っているけれど、腕も、足も、肩も、全部わたしよりひとまわり小さく出来ている。
きっとこれが、失ってはならぬもの。
永遠に守るべきもの。
「いつか、なるから。それまで待って頂けますか」
わたしは首を斜めに傾けて囁いた。
「いつかきっと、貴女の心の全てをわたしのものに出来るように。
絶対に誰にも渡さないと、胸を張って言えるように。
だから……それまでは、時々は飽きさせてしまうかもしれないけれど、どうか今のわたしで我慢して頂けませんか。
弱く頼りなくて、堅物で、融通が利かず面白みがなくて、貴女を想う以外に何も出来ない、このわたしで」
桜貝のような瞼が閉じられ、きらきらした鳶色の瞳が睫毛の向こうに消える。
唇と唇が触れた瞬間、温めて来たなにかが弾けて、わたしたちはものも言わずにただ、キスを繰り返した。
やっと見つけた宝物に夢中になる子供のように。
「……こんなふうにしても、いいの?」
何十回目かのキスの後で、珊瑚色に頬を上気させたアリーナ姫が呟いた。
「少しも怒らないなんて、焼きもちも焼かないなんて、お前は本当にそれでいいの?
もしもこんなふうにわたしが、他の男の人と……」
「それは駄目です!」
わたしが顔色を変えて叫ぶと、アリーナ姫はびっくりして目を開き、雲間から光がこぼれるように笑った。
「大丈夫、誓うわ。わたしにはお前しか見えない。一生、死んでもよ。
クリフト、ずっとわたしだけの傍にいて。
だからお前も誓って。どこにも行かないって、いつまでもわたしだけのものだって。
わたしだけが好きだって、愛してるって、
クリフト……」
永遠に、誓います。
けれど囁きは、答えを待ちきれなくなった唇にふさがれて、温められた大気を漂う純白の水煙と共に舞い上がり、やがて静かに姿を消した。