初夜



―――Sideアリーナ





「あーあ……一体、今日はなんて日だったのかしら。

まるで中身がぐちゃぐちゃのおもちゃ箱に、無理矢理押し込まれたみたいだったわ」

泥だらけの子犬がざぶざぶ洗われるように、てきぱきとカーラに沐浴を介助してもらう。

香油を混ぜこんだ熱い湯を頭から被ると、足を伝って黒いしずくが後から後から流れて行く。

全身べったりついた塗料はあとかたもなく落ち、体を拭って、用意された新しい衣服に着替えると、ため息と共にめまぐるしい一日で身体を侵食した疲れまで、湯気に溶けて消えて行くようだった。

脱衣室のマホガニーの鏡台の前で、ミネアが濡れた髪をブラシで梳いてくれる。

「ミネア、ありがとう。でもいいのよ、そんなこと」

ミネアはにっこり笑って首を振った。

「ううん、わたし、結構こういうことが好きなの。コーミズにいた頃には、姉さんの髪をいつも梳かしていたし。

それにきっと、もうすぐクリフトさんがあなたをお迎えに来るわ。うんと綺麗にしておかなくちゃね。

お城のてっぺんで、やっと彼に好きだって言ってもらえたんでしょう」

わたしは赤くなった。

「ど、どうしてそれを……」

「あら、知らなかったの?わたしは千里眼の占い師よ」

ミネアは楽しげに笑うと、わたしの髪にそっとブラシを入れた。

「綺麗な髪ね。つやつやして、べっこうみたい。濡れると巻き毛がふわふわ、まるでたんぽぽの綿毛だわ。

クリフトさんと並ぶと、あなたたちふたり、空と大地が対になってるみたいよ。

……いつか、蒼い目と鳶色の髪をしたふたりの子孫が、遥か未来に新たな運命を刻むでしょう。

わたしたちはここに歴史の礎が築かれたことを、そのささやかな端緒を担えたことを、生涯誇りに思うでしょう。

神に守られた、風と砂の国……幼き新たな勇者を護りし天空の兜を頂かる、不思議な砂漠の薔薇が咲く国の」

「え?なにか言った、ミネア?」

「なんでもないわ」

ミネアは我に返ったように視線を戻すと、微笑んだ。

「疲れたでしょう。今日はこのままお部屋に戻って、ゆっくり休むといいわよ。

と言っても広間の天井が壊れているから、最上階のあなたのお部屋は寒いかもしれないわね」

「それなんだけど」

わたしは首をひねった。

「どうしてあんなふうに突然、天井が壊されたのかしら。賢い飛竜が、鍵爪の掛からない不安定な硝子の上にわざわざ座る?

まるで最初からステンドグラスを壊すのが目的で、そこにいたみたいだったわ。

それにあの飛竜、どうも見たことがある気がしてならないんだけど、黒くって顔がよく解らなかったの」

「ドラ……ナロッドは、天空の勇者の使い。神託がなされ、勇者様はお帰りになられたから、彼ももう姿を消したはずよ。

勇者様、色々と文句を並べてらした割には、一番楽しそうだったわね。

あの方にとっても今日この日は、これからまた穏やかな暮らしを寿ぐための、大切な心の宝となるでしょう。

そして大天井に飾られたサントハイム建国史のステンドグラスを壊すことは、恐らく王家としても非常な決断を要したはず。

それはきっと、民間出身であるクリフトさんに対する、国王陛下の最大の思いやりにほかならないわ」

ミネアは静かに呟いた。

「古き血の鎖を解放し、神が見守る頭上に新たな歴史を描いていくという意味を、クリフトさんはちゃんと理解しているはずよ」

「なに言ってるんだか、ちんぷんかんぷんだわ」

わたしはため息をついた。

「突然お父様が仮病を使ったことも、さっぱり。

病に倒れた振りをしてまで、夜会に出るのが嫌だったの?それじゃまるっきりわたしと同じじゃない。

それにヒゲトリオにあいつも、揃って結婚してくれだのなんだの、かと思えばやっぱりいいだなんて……呆れて言葉もないわ」

「確かに、一日でこんなにたくさんの方から求愛されるなんて、そうはないわね」

鏡越しにミネアがくすくすと笑った。

「羨ましいわ、アリーナさん」

「なに言ってるのよ」

わたしは嘆息した。

「ミネア、あなたみたいに他人の心が透けて見える力を持つ人は違うんだろうけど、今日一日でわたしが実感したのは、たとえ家族や仲間でも、自分以外の誰かが考えてることなんてなにひとつ解りはしないってことだわ」

「だから、理解しようと努力するんでしょう。懸命に」

ミネアが囁いて、後ろからわたしの両肩にそっと手を添えた。

「だから、聞くの。歩み寄るの。

愛する者に向かって、自分の足で。

わたしたちは何度も、何度でも、声を限りに尋ねるの。

ねえ、あなたは今、何を考えているの?

どこを見ているの?

どうしたいの?

不思議でしょう。恋する者同士は互いに理解し合っているようでいながら、本当は相手の見たいものがなんなのかすら、決して知ることが出来ない。

だって、向かい合っているからなの。相手のことしか見えていないからなの。


愛する者を解りたいという願いは、彼を正面から見つめているその時ではなく、


向かい合うのを止め、隣に立って肩を並べて、同じ未来へ瞳を向けるその時こそ始まるものなのよ」



ミネアの手がわたしの体を動かし、扉の方へと向けた。

「ほら、アリーナさん。

あなたの未来が、もうそこまで来ている」

そう言った瞬間まるで魔法のように、扉がこんこん、とノックされる。

とたんにわたしの心臓は早鐘のように鳴り始めた。

「さあ、返事してあげて。アリーナさん」

「う……うん」

わたしは頷いて、扉に向かって恐る恐る言葉を投げた。

自分でもびっくりするくらい、弱く震える声だった。

「……どうぞ」

「失礼致します」

扉越しに、くぐもったいらえが返る。

軋みなどないはずの王城の寄せ木細工の扉が、きいい、と音を立てるほど、それはゆっくり、ためらいがちに開かれた。

脱衣室であることを気にしてだろう、扉を半分ほど開けたが入って来ようとはせず、心配げな声だけが届く。

「アリーナ様。その後、お加減はいかがですか。

先ほど、こちらからカーラさんが出てこられまして……もうお目通り願っても構わぬと」

「ええ、大丈夫よ」

返事を出来ずにいると、代わりにミネアが優しく答えた。

「あなたの大切なお姫様はどこにも傷ひとつなく、真夏のひまわりのように元気です。

お風呂に入ってお召しものを変えて、とても綺麗になったわ。どうぞ、こちらへ」

「で、では恐れながら……失礼します」

ここからは見えないのに、扉に向かって彼が一礼したのが空気の動きでわかった。

長身を前屈みに折ると、開いた隙間に体を滑り込ませるようにして、クリフトはわたしのもとへやって来た。

ぎこちなく伏せられた蒼い瞳。

目の前に来たもののなにも喋らず、堅い笑顔でミネアに会釈すると、なぜかなかなかこちらを見ようとしない。

どうしてだろう?

彼がぎくしゃくするのと同じだけ、わたしもクリフトの方が見られない。


(クリフト……わたしもう決して、お前の傍から離れたりしない!)


(アリーナ様、愛しています。


この世でただひとり、命を賭けて……)


(きゃーーっ!)

抱き合った時の胸のぬくもりと、ひたむきな愛に満ちた囁きが耳の奥でよみがえり、思わず真っ赤になる。

するとクリフトもなにかを感じ取ったのか、つられてぱっと赤くなり、慌てて下を向いた。

「クリフトさん、どうかしら?アリーナさん、髪を洗って梳かしたばかりなの」

ふたりして黙りこくっていると、ミネアが笑いながら言った。

「新しい衣は、カーラさんが用意したオリーブ色。まるで白樺の妖精みたいで、すごく素敵でしょう?」

「は……はあ」

クリフトは顔を上げてちらりとわたしを見、今度は耳まで赤くなった。

「どう?クリフトさん。アリーナさんは肌が白いから、こんな色の服もとてもよく似合うわよね。

まるで、神話の天使みたいに綺麗でしょう」

「はい……そ、その……そうですね。サ、サントハイム民族は北方系で、皆、教会のロウソクのように白い肌をしていますから。

そ、それにしても、お怪我がなくて本当によかった」

的外れなことを呟くと、こめかみに汗を浮かべ、困ったように視線を落とす。

ミネアはとうとう声を上げて笑い出してしまった。

「よく解りました。どうやらわたしは、お邪魔みたいですね」

「ち……違います!そのようなことは決して!」

「いいえ、わたしも占い師として空気を読む力くらいありますから。

でもね、クリフトさん。口下手な所もあなたの魅力だけれど、時に女性は男性から、手放しで褒めてもらいたいものなんですよ。

では、わたしはこの辺でそろそろ失礼します。姉の次の舞台の準備もあるし、もうモンバーバラへ帰らなくては」

「ミネアさん……」

クリフトは唇を引き締め、深く頭を下げた。

「あなたにも、大変なご迷惑をおかけしました」

「いいえ。わたし、今度のことはとても楽しかったんです。皆さんにお会いできて嬉しかったですし。

お芝居、癖になってしまうかも」

ミネアはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「近いうちに、姉さんに頼んでわたしも舞台に立たせてもらおうかしら、って思っちゃいました。

また新たな自分を発見出来て、幸せだわ」

「待って、ミネア!」

お辞儀して去ろうとするミネアを、わたしは慌てて引き留めた。

「来てくれて、本当にありがとう。

またきっと……きっと、会いましょうね」

「こちらこそ。心配しなくても、すぐにまた会えると思うわ。今度はあなたたちふたりの婚礼でね」

ミネアは微笑んで、わたしの耳にそっと唇を寄せた。

「こんなに素敵な人、世界中どこを探したっていないわよ。

クリフトさんを幸せにしないと、わたしが許さないから」

わたしは驚いてミネアを見た。

美しい占い師はうふふ、と小さく舌を出し、「嘘。でも、本当よ」と、あでやかな笑顔と言葉を残して背中を向けた。


「それじゃまた、必ず会いましょう。


クリフトさん、アリーナさん」
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