初夜



―――Sideクリフト





まさか先ほどまでかけていた銀縁眼鏡に、本物のレンズが入っていたわけではないだろう。

だが城の頂上部についた途端、視界が酒に酔ったようにぐにゃりと歪んで、本当は目の前の飛竜もあのお方の姿も、蜃気楼のようにおぼろげで、よく見えない。

恐怖が限界に達すると、自己防衛本能が対象を脳内から抹消しようとするというが、まさしくそれなのかもしれない。

(高くない、少しも高くない……!

心を落ち着かせる自己暗示を掛けるんだ。そう、ここは教会の庭園だ。

足下にはヒナゲシの花、町外れの果樹園からはスモモの香りが流れ、ムクドリは讃美歌のハーモニーに興を誘われ、高枝で心地良さげに春の歌をさえずる。

そして、わたしの傍には愛らしく微笑む姫様……)

もはや自己暗示が妄想の域に達して、わたしは我に返った。

吹きつける風がまとうのは明らかに地上とは違う猛々しさと、びゅうという甲高い叫び。

さっきと全く違った意味で、頭が真っ白になる。

「クリフト!」

だがわたしを力強く現実に引き戻したのは、アリーナ姫の可憐な悲鳴だった。


「クリフト、わたし……、


怖いの!」


いったいこの気持ちを、何と表現すればよいのだろう。

上手い言葉が見つからない。

たとえて言うなら「ずぎゅーん」だ。

心臓が打ち抜かれた。

九つの齢からアリーナ姫の遊び相手、また特別世話役としてお傍仕えさせて頂き、共に過ごした時間の中でも一度たりとも聞いたことのなかった台詞を、ついに耳にしてしまった。

(姫様が、怖いだって……?)

たとえ百万の魔物に取り囲まれたとしても、彼女は決して口にすることがない言葉だと思っていた。

わたしはずぎゅーんとよろめき、そのまま下に落っこちそうになって、慌てて尖塔の突端にしがみついた。

「な、なんてことだ……。こんなにお慕い申し上げて、長くお傍にいさせて頂いたことに、わたしはすっかり驕っていた。

姫様のご気性を知り尽くしていると、愚かにも自惚れていた。

この世の中に姫様が怖いものなど、ただのひとつもないと思っていた……。

ま、まさか姫様が竜の口にくわえられたくらいで、怖いとおっしゃるなど。

もう怖くありませんよ、と励まし申し上げながらも、心のどこかで、姫様ならばきっとこのような状況、楽しい!こんなふうにまた冒険してみたい!

そう、お思いになるのではないかと……」

「ビンゴよ。大当たり!

一等、ゴールドカードプレゼントだわ!」

アリーナ姫の目がハートになった。

「やっぱりわたしのことを理解してくれるのはお前しかいないわ、クリフト!

出来心でつい浮気しちゃったけど、これからはもう決して、お前から離れたりしないからね!」

「う、浮気?」

「そこで待ってて。すぐ行くから!」

「ち、ちょっと、姫様……」

呆気に取られるわたしににっこり笑うと、アリーナ姫はにわかに表情を引き締めた。

目を伏せると深く息を吸い込み、唇をすぼめてふうっと吐く。

次の瞬間、黒い飛竜の口の端から目にもとまらぬ速さで抜け出した。

そのまま身を翻して竜の背に飛び移ると、片膝を立てて角の生えた頭頂に拳をぐっと押しあてる。

流れるような動きは武術大会を制したあの旅の頃と同じか、それ以上の華麗さと俊敏さ。

鳶色の瞳が、獲物を捕えた鷹のように鋭く輝いた。

「わたしね、子供の頃クリフトとふたりで、山のように大きなお化け鼠を倒したことがあるの。

お前よりずっと獰猛で残忍な魔物を、小さかったわたし達がどうやって仕留めたのか教えてあげましょうか。

その頃もう、教会で医術の手ほどきを受けていたクリフトが、こう教えてくれたの。生き物の急所とは、身体の中心線上に星のように点在するんだって。

脳天、眉間、喉……わかるかしら。

つまり、こうしている間もお前はわたしに、既に三つもの弱点を無防備にさらしていることになるのよ」

困惑したように羽ばたきを止めた飛竜から、そっと拳を離す。

アリーナ姫は顔の前で両掌を合わせた。

「お願い!もうこんなことはやめて、わたしとクリフトを元の場所に帰して。

このまま新しい冒険に出るのもいいなって思ったけど、やっぱり皆に心配をかけるのはよくないわ。

昔と違って、わたしにもそのくらいの分別はついたの。とくにブライはあの調子だと、そろそろ近付いてるみたいだし……」

アリーナ姫は声をひそめてわたしをちらりと見、くすくす笑った。

「……それにお前に乗っての冒険だと、ものの三分も経たないうちに、高いところが嫌いなわたしの大切な相棒が参ってしまうわ。

わたしの目的は、あの人を神様から返してもらうことで、決してプレゼントすることじゃないの。

もう二度とあの人に恐ろしい思いをさせたり、心配をかけたりしたくないのよ。

これからは温かい毛布にすっぽりくるまったみたいに、穏やかで安心した日々を送らせてあげたい。

かつての長い旅の間、気球に竜の神様の背中、それに世界樹に天空の塔に、彼はわたしのために土から遠く離れるという恐怖を必死で乗り越えて来たんだもの。

不思議よね。

神の子供なんて呼ばれてるくせに、本当は誰よりも大地の子供なの。

平和で豊かで、生まれる喜びにきらめく命を育むこの地上をなにより愛している、




彼は神に深く愛された、紛れもない人の子なのよ」







楽しくてならない内緒話のように、彼女がひそやかに囁いた言葉は、わたしの耳には届かなかった。

何を言ったのか、それを知るのはもっとずっと後になってからのことだ。

だがもしもその時、わたしがそれを聞いていたとしたら、きっと彼女と同じように叫んだだろう。


彼女のように笑っただろう。


ビンゴ、一等ゴールドカード。



わたしは神の子供じゃない。





世界にたったひとりの、わたしという人間だ。






「クリフト」

飛竜が緩やかに空を漕ぐと、わたしのもとに飛んで来る。

体を傾けて促され、アリーナ姫が頷いたので、わたしは戸惑いながら飛竜の背に飛び乗った。

そしてぎょっとした。

「ア……アリーナ様、なぜそのように真っ黒なのですか?!」

「うん。困ったわねえ。下で世界各国の大使が大勢見てるのに。

こんな姿で降りて行ったら、またサントハイムの王女は暴れ馬だの、ろくでもない跳ねっ返りだの、根も葉もない噂が流れちゃう」

アリーナ姫は少しも困っていないように、嬉しそうに笑った。

「どうしてだかわからないけど、この竜はペンキ塗りたて注意!なのよ。

だから残念だけど、お前の法衣ももう真っ黒。諦めなさい。

でもこんなふうに、時には子供みたいに思いっきり汚れるのも楽しいわよね」

「アリーナ様……」

わたしはためらってから、アリーナ姫の手をそっと取った。

「ご無事でなによりです」

「うん」

「どこか、お怪我は」

「ないわ。お前こそこんなに高い所、よく昇って来れたわね」

「先ほどまでは、ここがこの世の奈落かという心地でしたが」

わたしは竜の背の上でアリーナ姫と向かい合い、微笑んだ。

「不思議と、今は大丈夫です。

それにあるじの貴女様が怯えておられる時に、わたしまで怖れるわけには参りませんから」

「怯えて?……ああ」

アリーナ姫は顔を赤くし、気まり悪げにうつむいた。

「え、えーと……さっきのあれは、ちょっと可愛こぶってみたっていうか、たまにはわたしも女の子っぽくなりたかったっていうか」

「なにをおっしゃいますか。貴女様は女の子です」

わたしは真剣な顔で言った。

「いかに無敵の強さを誇られようとも、アリーナ様は間違いなく女の子です。

だからどうかもう決して、危ないことはなさらないで下さい。

どうしてもなさねばならぬ危険な責務や、誇りや煤に汚れる作業は、このわたしが」

アリーナ姫は驚いたようにわたしを見た。

「……それ、確か昔も言ってくれたわよね」

「え?」

「アリーナ様は女の子なんですから。手足や衣服が汚れる仕事は、男のわたしにお任せ下さればいいんです……って。

子供の頃、ふたりでお化け鼠退治に行った、満月の夜の洞窟で」

「そ、そうでしたか?申し上げることに芸がなくて、恥ずかしい限りです」

わたしは戸惑って頭を下げた。

先ほどのカーラ侍従長といい、今日は不思議と幼い頃の冒険の思い出がよく登場する日だ。

「ねえ、クリフト……」

アリーナ姫はわたしを見上げて、おずおずと両手を広げた。

ほんの少し甘えるような、頼るような、不安げな光をたたえた瞳。

それが意味することに気づいて、わたしはさっと赤くなった。

きっと、ここが地上からおそろしく離れた城の頂上で、巨大な飛竜の背中で、そしてこんなにも多くのことが起きた今でなければ、無理だったかもしれない。


でももう、わかる。


勇気は希望と同じ言葉。


そして、わたしに踏み出す勇気をくれるのは、いつだって彼女だから。


「ご、ご無礼を……し、し、し……失礼致します」

わたしはかちんこちんになりながら、自分も両手を広げて、羽根を抱くようにそうっとアリーナ姫を抱きしめた。

「……ありがと、クリフト」

胸に頬を寄せて、彼女が呟く。

「助けに来てくれて、ありがとう」

「勿体ないお言葉です」

「すごく怖かった?」

「金輪際、城の頂上に昇ることなどないでしょう。貴女様のため以外では」

「ねえクリフト、わたしね、本当はお前の所に行くつもりだったのよ」

アリーナ姫は恥ずかしげに視線を泳がせた。

「そ、それはなぜかって言うと……こんなおかしなことになって、初めてそうしたかったって気付いたっていうか、

い、嫌だったらべつにいいんだけど、クリフト、わ、わたし……お前と」

「待って下さい」

わたしは両手を伸ばしてアリーナ姫の頬を挟み、はっとして離した。

「も、申しわけありません!塗料が付いて、お顔まで真っ黒に」

「いいわ、そんなの」

アリーナ姫はわたしから目を逸らさずに言った。

「そんなこと、いいの」

わたしはためらってから、もう一度彼女の小さな顔を両手で包んだ。

薔薇色の頬。

夢見るような鳶色の瞳が、わたしを捉える。

大丈夫。

なにも怖くない。



今こそ世界中の全てに誇れる、この言葉を。



「アリーナ様、愛しています。


この世でただひとり、命を賭けて。



だから……貴女の傍にいることを、お許し頂けますか。



これから先も永遠に、



ずっと……」






「おーーーい、降りて来い!

神託は叶った。聖祖の赦しが降り、世界中の証人の前で王女の真の伴侶が選ばれた。

これで、終幕だ」


誰かの声が下から飛んだ。

でもわたしたちふたりに気づいたのか、やがてそれも蝋燭の火が消えるように、ふっと途絶えた。


それから爆発的に起こったのは、歓声と祝福の拍手だったのか、それともこの瞬間を待ち受けていたように四方で弾けた、七色の花火の音だったのか。


よく解らなかった。



後のことがどうなってもいいなんて思ったのは、生まれて初めてだ。
32/38ページ
スキ