初夜
―――Sideアリーナ
「ちょっと!止めなさい!
離しなさいったら!なんなのよ!」
突然拉致されたか弱い娘よろしく叫んだものの、身をひねってもがくと意外と身動きが自由に取れて、絨毯みたいに大きな舌の上で、体を起こすことだって出来る。
わたしは訝しげに空を舞う飛竜の顔を見上げた。
ずらりと並んだぎざぎざの歯は、丹念に研がれた剣の切っ先のように鋭利だ。
だがよく見ると唇のきわぎりぎりでわたしをそっと挟み、注意深く牙を立てないようにしている。
直線状に伸びた翼が風を切り、鮮やかに滑空する。
心臓が堪え切れずに脈打つ。
(すごい、すごい……!
なんだかよく解らないけど、竜の口の中なんて初めてかも!)
お腹の底がたまらなくうずうずして、わたしは思わずうっとりと頬を緩ませた。
「素敵だわ。わくわくするわ!伝説の竜王にさらわれたローラ姫も、もしかしてこんなふうに連れ去られたのかしら?
竜王って恐ろしく尖った剣先のような鱗を持っていたって言うけど、素手で触ると痛いのかな」
わたしは体を反転させて手を伸ばし、飛竜の首に恐る恐る触れた。
そして眉をひそめた。
「……なにこれ、塗料?」
撫でたのとまったく同じ形で、飛竜の漆黒の体に橙色の線が入る。
掌を広げると、まるで手形を取る前みたいにべたりと真っ黒だ。
「お前、体になにか塗ってるの?真っ黒に身体の色を変えて、もしかして変装でもしてるつもりなの」
飛竜はぎくりと首を縮めた。
「そういえばお前の顔、どこかで見たことがあるような」
「ぐ、ぐおーん」
飛竜は焦って吠え、違う違うというように空中でぶんぶんと首を振った。
「ちょっと、急に顔を動かさないでよ!こんな高い所から落っこちちゃったらどうするの?」
「ぐおおーん」
「ああ、ごめんなさい、ね。いいわよ、許してあげる。
次から気をつけて……って」
わたしは首を傾げ、はたと考え込んだ。
「……どうしてわたし、お前の言いたいことがわかるのかしら。
まるで長い間一緒に旅をしたことがあるみたいに、お前がなにを考えてるのか解るわ。
その目、その鳴き声……それに、塗料の下の夕日みたいなオレンジ色の皮膚。
わたし、お前のことをよおく知っているような気がする」
「ぐ、ぐ、ぐおおん!」
飛竜は動転したように顔をもたげて加速し、天井と垂直の形になった。
わたしは驚いて飛竜の舌にしがみつき、激しい風圧に目を閉じて耐えた。
そしてすぐに目を開け、顔を輝かせた。
(楽しい!)
体の中の血がふつふつ沸いて、まるで手足がばねになったように、指先まで弾力で満ちる。
細胞が踊り、懐かしい記憶を再生する。
かつて偉大なる竜の神の背から、危険な闇の世界の冒険に身を投じたこと。
空気を押しのける熱いガスの壺を手に入れ、丸い気球で世界中を巡ったこと。
大切な仲間たちと共に乗り越えた旅の日々は、わたしの心で少しも色褪せない。
脳裏を駆け廻る思い出は、いつだって鮮明なオールカラーだ。
(……また、冒険したいな)
わたしは黒い塗料が移るのも気にせず、飛竜の鼻づらに両手を回して抱きついた。
(やっと平和が訪れたのに、なんて不謹慎なことを言う王女だって、こっぴどく叱られるかもしれない。
でも、わたしは戦いたい。
世界中を冒険したい。
いつかこの身体が動かなくなるまで、千の海も山も越えて、神秘の世界樹から見果てぬ天空城まで、どこまでも越えて行きたい。
この目で色を変え続ける未来を見つめていたい!)
そしてきっとそんなわたしをあたふたと追いかけ、支えてくれる人がいる。
ああ、彼なら絶対について来てくれるわって、胸を張って言える人がいる。
なんて幸福な愛の保証。
いつだってわたしは、世界一幸せなおてんば姫だったのだ。
粉々に砕けたステンドグラスの割れ間から、真っ青な空が覗いている。
(このまま突っ切って、お城の向こうへ出て行っちゃうのかしら?)
おかしなことばかりの城にいるくらいなら、いっそそれも悪くないかもしれない。
わたしは大きく息を吸い込んで叫んだ。
「よーーし、行けーーっ!」
「行くなーーっ!」
その時、身体を絞るような絶叫が被さって、わたしは目を丸くした。
声のする方を振り返る。
そして、再び叫んだ。
今度はもっと大きな声で。
「クリフト!!」
「姫様、ご無事ですか!」
割れて開いた城のてっぺん、崩れかけた尖塔に片足を引っかけ、彼が立っている。
舞い上がった竜と同じ位置、目もくらむような高さの城の頂上にクリフトが立っている。
必死でよじ登って来たのか、萌黄色の法衣は見事に煤だらけで、トレードマークの長い聖帽を被っていない彼の髪が、強風に吹きつけられて激しく波打った。
「姫様を返せ、外道!」
クリフトは恐ろしい形相で飛竜を睨むと、片手に掴んだ聖杖を突きつけた。
「何の目的で、神聖なる王城にてこのような暴挙に及んだか知らぬが、魔族なき今、人外にも寿ぐべき平和があろう!
この世界は決して、人間だけのものではない。
だが正しく生きる異種族へ不可侵の義を尊ぶ聡明さは、たとえ姿形が違えども、各々持ち合わせてもよいのではないか。
もう一度だけ言う。今すぐ姫様を離せ。そしてここを去り二度と現れるな。
さもなくば、サントハイム王家の忠実なる臣の名に置いて、お前の命はない!」
わたしははっとした。
クリフトの額には尋常ではない量の汗が浮かび、唇は真っ青に歪んでいる。
(そうだわ、高所恐怖症)
「クリフト!大丈夫なの?」
わたしは叫んだ。
「心配しなくても、わたしなら平気よ!
こんなに高い所、本当ならお前は決して耐えられないんでしょう?無理しないで!」
「ご安心ください、姫様」
クリフトは青ざめた顔を真っ直ぐに上げると、安心させるようにわたしに微笑みかけた。
だが唇を動かすと、ぎいい、と音がしそうなくらい、その笑顔は完全に引きつっていた。
「どこも痛くありませんか。お苦しいかもしれませんが、今しばらくお待ち下さい。
もうなにも怖くありませんよ。必ずわたしが、貴女様をお助け致します!」
「クリフト……」
その時こみ上げた感情を、一体どう説明すればいいのだろう。
上手い言葉が見つからない。
たとえて言えば、「きゅーん」だ。
わたしはきゅーんとして頬を赤くし、思わず両手を組み合わせてクリフトに叫んだ。
いくら鋼の心臓を持つおてんば姫だって、時には冒険心より、いたいけな乙女心が勝る時もある。
「助けて、クリフト!
わたし……わたし、怖いの!」