初夜



―――Sideクリフト





地鳴りと共に襲って来る揺れは、その瞬間なぜか少し和らいだ。

矢群を射られたように一斉に全身に突き刺さる、目、目、また目。

確か今朝はこれが教会の扉で、視線のあるじは騒ぎ立てる多くの若い女性たちで、そしてもう少し好奇心より好意の方が強かった。

どこか奇妙な慨視感。

考えてみれば、今日はまるで作られたように、全てがおかしな日だったのだ。

視線の群れのいちばん向こうから、不安そうにこちらを見つめるアリーナ様の顔。

地面が揺れると彼女も揺れる。

(壁が崩れでもしたら大変だ……早く姫様のもとへ!)

「お待ちなさい、神官クリフト。貴方がサントハイムにこれありと謳われる神の子供。そうですね?」

「ミネアさん?!」

歩き出そうとしたわたしを制し、静かに歩み寄って来た人物を見て、わたしは驚いて叫んだ。

「な……なぜ、貴女がここに」

「お静かに!」

ぴしゃりと遮り、ミネアさんは据わった目でこちらを睨んだ。

ベールの下から凝視する薄紅の瞳に、ただならぬ威圧感を感じ、わたしは怖れをなして口をつぐんだ。

「黙って、わたしの質問に答えて下さい。貴方がサントハイムの誇れし神の子供ですか?」

「と、共に城市に暮らす民がらのなかには、なぜかわたしをそう呼ぶ者もいるようですが……」

わたしは戸惑いながら、きっぱりと首を振った。

「わたしはそのように名乗ったことなど、一度もありません。自らが神の子供であるなど、あまりに恐れ多いと思っています。

この身はまだまだ不肖の身、到底神の御手にいとし子として抱かれるような、高き存在ではありません」

「……では、あなたは神の子供ではないと?」

糺すようなミネアの問いかけに、わたしは深く頷いた。

「はい。違います。

わたしはただの、卑しき人の子です」

「それ見ろ!ミネア。神託は間違っていた。王女の相手はそいつじゃない!」

アリーナ姫の背後にいた勇者の少年が、勝ち誇ったように天空の剣を振り上げた。

「なにが運命の相手だ。聖祖が定めた神の子供だ。

こいつは好きな女の前で尻尾を巻いて逃げだすしか出来ない、軟弱者の負け犬だ。

聖杯なんかじゃない。底に大穴のあいた、役立たずの無様な割れ鍋さ!

ついでに言うとウドの大木で長帽子の間抜け、姫御前狂で人肌知らずのストーカー悪魔神官だ!」

少年の肩先の蛙が仰天して飛び上がった。

「い、言い過ぎケロ!そんなことまで台本に書いてなかったケロ!」

「いいんだ。このくらい言わないと、あいつは尻に火がつかない。

ただでさえ根っからの事なかれ主義者、生粋の保守派だからな」

「……クリフトさんの悪口を言ってるあなた、怖いくらい生き生きしてるケロ」

「心配するな、嫌い嫌いもなんとやらさ」

勇者の少年は笑って、挑戦的にわたしを見据えた。

「いいのか?クリフト。このままだと俺がアリーナ姫を妻としてもらうことになるぜ。

もらうと言ったらもちろん、まるごとだ。

あーんなところもこーんなところも、全部まるごとだ」

(な、なにっ?!)

「わっ、痛てーーーっっ!!」

見ると、勇者の少年の頬に蛙がガブリと噛みついている。

「も、もらうだなんて!わたしというものがありながらなんてことを……許せないケロ!」

「馬鹿、シンシア、止めろ!痛てえ!

こ、これは違うってお前も知ってるだろ!」

「知っていても、やっぱりどうしても許せないケロ!」

蛙と少年がすったもんだと揉み合うのを、わたしとアリーナ姫は唖然と眺めていた。

「あ、あのう……」

「頼む、あと少しなんだ!お前だって最初はちゃんと我慢できるって言ってたじゃねーか」

「だって、やっぱり嫌だもの。あなたが他の女の子をもらうなんて言うの、嘘でも嫌だもの!

うわーーん、わたし、もうやだ!こんなのやだ!

選ばれしエルフの秘義、「おうちにカエル」!」

カエルは少年の頬から口をパカッと離すと、べそをかきながら唇を尖らせ、なにかをふうっと吹き出した。

空中で白い弧を描いたそれは、小さなキメラの翼だった。

「もう知らない!あなたなんか大嫌い。二度と山奥の村に帰って来なくていいケロ。外の世界で好きなだけ遊ぶといいケロ!」

「ち、ちょっと待て、シンシア……!」

「大っっっ嫌い!!」

(シンシアさん?あの蛙が?)

目を丸くして見ていると、カエルは少年に向かって「イーだ」をし、みるみる霧のようにかき消えてしまった。

「……嫌われちまったじゃねえか、てめー……」

勇者の少年の肩がわなわなと震え始めた。

「あいつは一度機嫌を損ねたら、後が長いんだ。あの手この手でなだめすかさないと笑ってもくれないんだ。

許してもらえるまで、毎回どれほど俺が苦心してるか知ってんのか、この野郎」

「な、なんのことですか?」

「もう頭に来た。いつまでもはいそうですかと、人形みたいに言うことを聞いてられるか。

王家の面倒な茶番に付き合うのはたくさんだ!」

少年は剣を持っていない方の手を振り上げ、天井に向かって叫んだ。

「出でよ勇者の使い、飛竜ナロッド!

天空の炎を持ってさだめに逆らうサントハイム城を飲み込み、剣なる王女を我が手に!」

「ま、待って下さい!勇者様、それでは段取りが……!」

焦ったミネアが少年を止めようと身を乗り出すと、

「こうなると思ってたわ。大丈夫よ、ミネア、クリフト、アリーナ!

わからずやのクソガキの相手は、あたしに任せなさい!」

目の前に突然、べつの人影が現れた。

きらきらと身にまとう水煙のような霧の粒子は、ルーラの魔法の残滓。

繻子の踊り子の衣装に紫檀を貼った靴、空気さえ華やぐ香水の香り、銀粉を散らした長い髪。

まるで大輪の花が咲くようにあでやかにミネアの横に降り立ったのは、姉である踊り子のマーニャだった。

「マーニャさん?!」

「久しぶり、クリフト。まったくこんな面倒なことさせてさあ、高くつくわよ。

お代に目の肥えたこのマーニャさんが認めるくらいの、とっておきのあんたの男ぶりを見せてちょうだいよね」

マーニャは色っぽく片目をつぶると、一変して表情を険しくし、勇者の少年に掴みかかった。

「いい加減にしなさいよ、このガキ!それを呼ぶのはまだ早いでしょ!」

「わっ、さ……触るな!この破廉恥女」

「あんた、芝居を舐めてもらっちゃ困るのよ」

マーニャは恐ろしい形相で言った。

「舞台ってのはね、自分だけじゃない、数え切れないくらい多くの人の血と汗で成り立ってるものなの。

この場面を作り出すためにどれほどの人間が努力を重ね、苦労し、頭を悩ませて言葉を紡いだと思ってるの?

あんた、いつか約束したわよね。あたしの復讐に最後まで付き合うって。あたしたち指切りしたわよね。破らばもろともって。

あたしの復讐の終わりはね、みんなが幸せになる事よ。

父さんが考えなしに生み出した錬金術で、魔物に蹂躙されてしまったこの世界が……そんな世界で、変わらずあたしのことを支えてくれたみんなが、残らず幸せになることよ。

道はまだ遠いかもしれないけど、少なくともこの一幕がサントハイムに絶対に必要なことだって、ひねくれ者のあんたもわかるわよね?」

勇者の少年は憮然と黙り込んだが、やがて渋々頷いた。

「……わかった。

勝手なことをして、悪かったな」

「あら、旅してた頃とは違ってずいぶん素直になっちゃって、いい子ね」

「うるさい!さっさと続けるぞ」

少年は不愉快そうに顔をしかめると、わたしをじろりと睨んだ。

「おい!クリフト。この場ではっきりしろ。アリーナも見ている。

お前は神の子供なのか?アリーナの運命の相手の聖杯なのか?

ひとりの男として、アリーナを愛しているのか?

世界各国の大使が見守る今、皆の前でそう断言できないのなら、サントハイムの王女は俺が貰うことになる」

「ちょーーっと、待ったあ!」

突然背後から轟いた叫びに、わたしは驚いて振り返った。

どこに隠れていたのか、四方からこちらへ疾風の如く駆けて来るのは、深紅の鎧をまとった姿と、膨らんだ道具袋を背に抱えた巨躯。

いや、道具袋の方はお世辞にも疾風の如くとは言えない緩慢さだ。

鍛え上げた鞭のような髭、酒樽のように丸々と太った髭、ふたりの髭の男は、

「ライアンさん、トルネコさん……!?」

「失礼する、クリフト殿。申しわけないが、王女を貰うのは拙者だ!」

「違いますよ、このわたしです!ネネにはちゃんと許可を戴いて来ました!

このくらいギャランティが高ければ、犯罪以外はなんでもしていいと……いっ、いえ!いえ!」

「黙らっしゃい。アリーナ姫を娶るのはおぬしらではない!このわしじゃ!」

ライアンとトルネコに大きく遅れ、最後尾で杖を振りながら走って来た人物の正体に気付くと、わたしは驚愕した。

「ブ、ブライ様……!?」

「悪いのう、クリフト!老いてはおるが、わしとてまだまだ若い者に負けはせぬ!

それに姫と共に過ごした時間なら、この中で唯一おぬしよりわしのほうが勝っておるぞ!」

老魔法使いの皺深い顔に、にやりと狡猾な笑みが浮かぶ。

わたしは絶句して、仲間たちの向こうに立ち尽くすアリーナ姫と見つめ合った。

彼女の顔にも、まったく同じ疑問が書いてある。


(なんなんだ(なんなの)、一体?!)


こうしてかつての導かれし者たちが、その場に全員揃った。
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