初夜



―――Sideクリフト





広間から離れ、使用人部屋の並ぶ西の回廊の柱陰にさっと隠れる。

(よし、大丈夫だ)

辺りを見回し、誰もいないのを何度も確かめてから、マローニから預かった布包みを開く。

わたしは眼鏡をはずし、頭のサッシュをほどくと、綺麗に畳まれた神官服を取り出した。

繊維の奥まで浸みついた教会の白檀の香木の香りが立ち昇って、神に赦された鮮やかな萌黄色が目に飛び込む。

その色が清冽であればあるだけ、こうしている自分が愚かしく思えて、わたしは肩を落として深いため息をついた。

(……一体なにをやってるんだ、わたしは?)

恐れ多くも神聖なる王城で、こそこそと変装したり隠れたり。

あまつさえボロンゴなどどいうわけの解らない名前を名乗って、貴きアリーナ様をたばかったり。

(結婚を申し込むのよ。わたしがクリフトに)

……挙句の果ては、自分に都合のよい幻聴まで聞こえるようになったらしい。

(早く教会に戻って、神に祈ろう。祭壇の前で告解して心を清めよう)

そして、アリーナ様のお傍にいたいなんていう分不相応な望みを抱くのはもう止めるんだ。

聖サントハイムの子孫であるあのお方と、神に身を捧げたわたしと、ふたりの前に伸びる道は全く違う方向を向いていて、あのお方のお傍で共に歩いて行けたらなんて望んだことが、そもそもの間違いだったのだ。

柱の陰で極彩色の衣装を脱ぐと、驚くほど大きな音でしゃらんと鈴が鳴る。

わたしは慌てて衣装を丸めたが、逆効果で余計にしゃらしゃらと鈴がぶつかってしまった。

(まずい!)

柱横の扉が開いて、人影がこちらに歩いて来る。

「なにかしら、楽器が倒れるような大きな音がしたけど。

あら、そこにどなたかいるの……って、きゃーーーっ!!」

現れたのは、幼い頃からアリーナ姫専属の世話係でもある、カーラ侍従長だった。

「わあっ!」

わたしは上半身裸の状態で飛び上がり、焦って神官服を胸に掴んだ。

「いやあああ、変態!変態よ!裸の変態!伝説の変態仮面カンダタよ!

誰かっ!誰かある!」

「ち、ちょっと待って下さ……カーラさん、わ、わたしです!」

「誰か……え?」

カーラは唖然とわたしを見た。

「クリフト様?」

「は、はい」

わたしはひきつった笑顔を浮かべて、頭を下げた。

「こんにちは。どうも……ご無沙汰しております」

「ええ、こんにちは。こうして城でお目にかかるのは久しぶりですわね。ご機嫌いかがですか、クリフト様」

「はい、お陰様で元気にやっております」

「まあ、それはよかった。いつもアリーナ様にオカリナや勉学のご指南、まことに感謝しておりますのよ。

ありがとうございます、クリフトさ……」

カーラさんは深々と頭を下げ、はっとした。

「……って、違うでしょう!呑気に挨拶してる場合ではありませんわ!

あなた、クリフト様、いったいなぜここに……というかその格好」

カーラさんはわたしを見つめ、ぽっと頬を染めた。

「いやですわ。クリフトさんったら、いつ鍛えてらっしゃるんですの?もしかして筋トレが内緒のご趣味とか?

すらりとお背が高くて、女性のように細身かと思いきや、脱ぐと意外としっかり筋肉が」

「あ、あのう……すいません、カーラさん。今、服を着ますから」

「はっ!し、失礼致しました!」

カーラ侍従長は真っ赤になって、わたしに背を向けた。

「と、ところでクリフトさん、いったいまたなぜここで、そのような出で立ちを」

「え、ええと、それはですね……」

(いいですか、クリフトさん)

マローニの声が蘇る。

(あなたは国王の病の知らせを聞いて、たった今、取るものも取りあえず城に駆け付けた)

(ボロンゴは既に城を去った。わかりましたね!)

「恐れ多くもわたしは、王城直属教会の神官です。医術の心得、また回復魔法とて、この国の第一人者を持って任ずると自負しております」

わたしは急いで神官服を頭から被ると、厳しい表情を作ってみせた。

「国王陛下が、急な病にお倒れになったとの知らせを聞きまして、あいにく入浴中だったのですが、服を着る間もなく城へ参内させて頂きました」

「まあ、裸でやって来るほど大慌てで?なんという忠義、家臣の鑑ですわ!」

カーラ侍従長はとたんに瞳を潤ませた。

「さすがクリフトさん!やはり、わたしの眼鏡に狂いはなかったわ。

こうしていらして下さって、我が主アリーナ様はどんなにご安心なさることでしょう!」

「は、はは……」

安心なさっているどころか、今頃ひどく不安がっておられることだろう。

なにせ、ボロンゴだったわたしはアリーナ様を突然おひとりにしてしまったのだから。

「……ねえ、クリフトさん」

顔を曇らせたわたしに気づかず、カーラ侍従長は言った。

「わたしはね、幼い頃からあなたのことをずっと、ずうっと買っていたのですよ。

覚えていらっしゃいますか。その昔、また小さな貴方とアリーナ姫様が、内緒でお化け鼠退治の冒険に出られたことを。

魔物の爪にやられ、意識を失うほどの深傷を負いながら、あなたは必死にアリーナ様を守っていらっしゃった」

「……そ、そんなこともありましたか」

「ああ、この人なんだ。姫様の赤い糸の結ばれたお相手は……って、その時わたしは思ったのですよ」

カーラ侍従長は目を細めた。

「きかん気で、そこらの男より暴れ者だと皆が手を焼いていたアリーナ様のことを、あなたはこうおっしゃった。

アリーナ様は、男の子なんかじゃない。女の子です、って。

いつも強がってるけど本当は弱くて、とても寂しがりやなんだ。誰かが側にいて、守ってやらなきゃいけないんです……って。

忙しい父王と睦まじく暮らすこと叶わず、早くに母を失くした王女として、おてんばの裏であの方がずっと抱えて来た寂しさを、心から理解しているのは貴方だけだった」

カーラ侍従長はその場に膝をつき、両手を揃えてわたしに頭を下げた。

「クリフト様。勇者様がご婚約者候補としていらしている今、このように申し上げていいのかどうかわたしには解りません。

ですがどうか、アリーナ姫様のことを宜しくお願い致します。あの方をこれからも守ってあげて下さい」

「カ、カーラさん……!お止め下さい」

「もう、そろそろ宜しいのではありませんか。素直におなりになっても」

カーラさんは微笑んだ。

「どうか逃げないで、諦めないで。

心が強く求めてやまない想いこそ、のちに必ず幸せの花を咲かせるのだとわたしは信じています。

誰しも人生でたったひとつ、これだけは譲れないという願いが、あってもよいのではありませんか?

クリフト様、貴方はどんな自分がいちばん好きですか?


愛する者の前に胸を張って立てる貴方は、どのような自分なのですか?」


戦きに痺れた喉が、音を立てて鳴った。


(お前の勇気を、わたしはずっと待っているから。クリフト)


(アリーナ様)


……そうだ。


本当はわたしはもう、とっくに答えをもらっていたのに。

聞こえないふりをした。

いつもいつもわたしはそうやって、逃げる。

怖いから。

今を変えるのに臆病だから。

まだ見えない未来が不安だから。

でも、踏み出さなくちゃ何ひとつ得られない。


(勇気はね、希望と同じ言葉。出すものじゃない。掴むものなのよ)


(だから簡単よ。身体をねじって頭を悩ませてひねり出すんじゃなくて、全力で走って手を伸ばして、掴めばいいだけなの!)


自分の中にあるのかどうかすらわからないものを、出せ、というのは、本当はとても難しい。

でも、もし目の前に見えているんだったら?

足を踏み出して、思い切り手を伸ばせば届くものだったとしたら?

「……出来るかもしれません。わたしにも」

「え?」

「カーラさん、ありがとうございます」

わたしはカーラ侍従長の前に膝まづき、頭を下げた。

「これから、アリーナ様をお迎えに参ります。そして国王陛下にお目通り願います」

「クリフトさん……」

「ようやく目が醒めました。わたしはもう決して逃げません」

立ち上がると、わたしは毅然と告げた。

「諦めることもしません。自分を騙すのももう止めです。

わたしはアリーナ様を心よりお慕いしています。それは神をも動かしがたいまごうことなき事実。

どう足掻こうとも、わたしは生涯命を賭して、あのお方の幸福の一助となりたいと望むしか出来ないのだから」

「な、なんと……?まだるっこしくて、よく解りませんわ」

「つまり」

わたしは微笑んで、身に着けた神官服の長い裾を払った。

「わたしは、アリーナ様が好きだ。どうしたって好きだ。

この命がある限り、絶対に諦めたりなんか出来ないってことです!」
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