初夜



―――Sideアリーナ





「御前、失礼致します!」

嵐のように去って行く、ふたりの青年の影。

クリフトにそっくりな楽師ボロンゴはマローニに連れられて、あっという間にいなくなってしまった。

「……行っちゃった」

しゃらんしゃらんと揺れる鈴の音の残響が、耳にこびりついて離れない。

「行っちゃった……」

瞳が重なると驚くほど心臓が弾んだ、大好きな彼によく似たあの微笑み。

(よかった。姫様が笑っていらっしゃるから)

(ありがとうございます、姫様)

小鳥のようなおかしな声が紡いだ囁き、優しい掌のぬくもり。

(ボロンゴ……)

「お前、そんなところでなにぼーっとしてんだ。

廊下の真ん中に座り込むのは、一国の王女の品位としてどうなんだ?」

顔を上げるといつのまに現れたのか、天空の勇者の少年が呆れた表情でこちらを見降ろしている。

「……なによ。あんた、まだいたの」

「庭園の東屋で、飯を食って来た。お前の侍女が用意してくれたんだ。

てきぱきしてよく笑う、髪を結わえた」

「ああ、カーラのことね」

「飯を取り分けてくれて、飲みものを注いでくれて、「たくさんお食べなさいませ」と言ってくれた。

まるで母さんみたいだった。お前はいいな、ああいう人がそばにいて」

勇者の少年は呟いて顔を赤くした。

「……とにかく、村じゃ食えない美味い物をたくさん食うことが出来た。

みやげももらったし、来てよかった。な、シンシア」

少年の肩先に乗った緑色の蛙が「ケロロン」と嬉しそうに跳ねた。

「大満足ケロ!外の世界が見られて、わたし、とっても幸せケロ。

また、遊びに来たいケロ」

「いつでも連れて来てやるさ」

「次は、あなたとふたりっきりの新婚旅行がいいケロン」

「なっ……そ、それは、そのうち」

「……ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」

肩先の蛙と見つめ合い、甘い雰囲気になっていた少年が我に返った。

「な、なんだ」

「浮気って、どこからが浮気なのかしら」

「はあ?」

勇者の少年は狐につままれたような顔をした。

「なんの話だ」

「た、たとえばもし、好きな人以外にドキドキしちゃったら、それはもう浮気なのかしら。

ずうっと好きな人がいるのに、他の人をちょっとでもいいなって思ったら、それはもう浮気なのかしら。

わ、わたしにはもう、クリフ……ううん、大切な人を想う資格なんてないのかしら」

「なんだお前、他の男に目移りでもしたのか」

少年は面白そうに瞳を輝かせた。

「浮気だかなんだか知らないが、お前とクリフトは結婚してるわけじゃない。幼馴染みの腐れ縁ばかり後生大事にする必要もないだろ。

おまえみたいな暴れ馬にも一応、王女っていう高価な肩書がある。

権力に物を言わせれば、神様神様言ってる堅物神官なんかより、もっとましな男を探せるはずだ……って、痛ってーっ!」

蛙に頬をガブリと噛みつかれて、少年は飛び上がった。

「じ、冗談だ!悪かった。言い過ぎた」

「全然、笑えない冗談ケロ。幼馴染みの腐れ縁?それもしかして、わたしのことを言ってるケロ?

あなた、結婚してなければなにをしてもいいとでも思ってるケロ?」

「ち、違う!」

蛙は勇者の少年の頬にくっきりと虹型の歯形をつけて口を離すと、優しくわたしを見た。

「アリーナさん。それは、もしかしてボロンゴさんのことケロね」

「えっ……ど、どうしてわかるの!」

「大丈夫。心配しなくても、それは浮気じゃないケロ」

蛙のシンシアは微笑み、水かきのついた小さな手をそっと差し出した。

「ねえ、アリーナさん。もっと自分の想いに自信を持って。

初めて会った時から、思っていたわ。わたしとあなたはどこか似ている。

わたしにはあなたのように好きな人を守り抜く力がないから、戦うことが出来なかった。

離れることで、自分を犠牲にすることで守ろうとするしか、出来なかった。

でももし、わたしがあなただったら。

失くしたくない大切なものと、並んで戦う強さを持っていたら。

わたしはきっとあなたと同じように、この子と一緒にどこまでも戦ったわ」

小さな緑の蛙は、いとおしそうに勇者の少年を見上げた。

視線に気づくと、少年は頬を赤らめて居心地悪げにぷいと反対側を向いてしまった。

「アリーナさん、あなたはわたしと同じなの。自分でも気付かないうちに、もうとっくに輝く宝物を見つけてる。

そういう人は、どうしたって浮気なんて出来ないのよ。

だって一本しかない赤い糸は、もう硬く結ばれちゃっているんだから」

(こうまでせねば解けぬほど、小難しく糸を絡ませた神の悪戯とやらを……)

(じゃが、この国を挙げての猿芝居に対するツケも、のちのち奴めが生涯をかけてきっちり支払ってくれようさ)

父王の部屋にいた時、ブライが仏頂面でそう言っていたのを、わたしは思いだした。

(糸。運命の赤い糸)

絡んで、ほつれて、行き先のわからないわたしのそれは、一体どこへと繋がっているんだろう?

「ねえシンシアさん、教えて。その赤い糸って、誰と誰が……」

「こらっ!そこで一体なにやってるんだ、あんたは!

「本番」までもう時間がないんですよ!」

その時鋭い美声が飛んで、マローニが再びこちらへ走って来た。

床に座り込んだままのわたしを見つけて、ぎょっとする。

「お、王女殿下……まだこんなところにいらしたのですか!」

「ああ、なんでも浮気しちまったらしいぞ、浮気」

勇者の少年は愉快そうに言うと、シンシアの蛙がまたパカッと口を開いたので、あわてて口をつぐんだ。

「ボロンゴは既に出立したのですが、わたしは挨拶回りですっかり遅くなってしまいました。早くここを失礼しなければ。

さあ、勇者様はそろそろ広間の中央へ……例の皆様も、もうお集まりのようですし」

「ああ、わかった」

「わかってるんなら早く行って下さいよ!」

マローニは小声で叫ぶと、眉を吊り上げた。

「いいですか、お偉いお偉い勇者様。あんたがぐずぐずしてると、せっかくここまでうまく運んだすべての段取りが狂うんだ!

さっさと行きなさい!そして、男らしくばしっと決めて来るんです!」

「なんだよ、詩人ヤロー。お前、こないだ村に来たときとはと違って、ずいぶんな物の言い方だな」

「くっ、その清涼な声。それに偉そうな目つきの妖しく色っぽいこと……!

わたしは自分より綺麗な顔をした人間が、大嫌いなんだ!」

マローニは唇を噛み、悔しくてならないように喉を揉み絞った。

「くそお、この一件が成功して褒賞を頂いたら、絶対に専属のメイクアップアーティストを雇ってやる。

こんな小生意気なガキに負けないくらい、世界一美しくなってやる!

目指せ、美容番長!」

「何言ってるんだ、お前?」

騒がしく言い合うマローニと勇者の少年を、わたしはぽかんと見つめていた。

何の話かさっぱりわからないけれど、ボロンゴがもうこの城を去ったことは確かなようだ。

(証人がいないと、教会に行けない。

このままじゃ、わたし……会えない)


どっちに?


わたしははっとした。


わたしは、どっちに会いたいの?


クリフトに?


ボロンゴに?



脳裏で微笑む蒼い瞳。



(そんなの……決まってる!)



「ちょっとあんた、ついて来て」

わたしは立ち上がると、勇者の少年の襟首を荒っぽくつかんだ。

「痛てーな、なんだよ!」

「ボロンゴはいなくなってしまったし、やっぱり証人はあんたでいいわ。っていうかもう誰でもいいの!

証人なんかいても、いなくても」

わたしは叫んだ。


「わたしが好きなのはクリフトだけ、それは誰が見ていようと絶対に変わらないわ!」


その時だった。

ふいにどん、という地響きが天井を揺さぶり、まるで地震が起きたように城全体が激しく揺れた。

「な、なに?」

「じ、地震ですかねえ?わあっ、怖い!」

マローニは芝居がかった仕草で頭を抱え、勇者の少年を睨んだ。

「ほら、始まった。早く行きなさいって、あんたは!」

「わかった。離せ、アリーナ」

勇者の少年はわたしの手を振りほどこうとした。

「嫌よ!」

だがわたしは激しく首を振った。

「ついて来てって言ってるでしょ。わたし、教会に行くのよ。クリフトに結婚を申し込むの」

少年はぎょっとした顔をした。

「なんで、浮気から今度は結婚になるんだ。訳がわからねえ」

「浮気のことも、クリフトにきちんと話して心から謝るわ!

わたしにはクリフトしかいない。クリフトじゃないと駄目なの。

都合よく思ったことなんかない。優しさを利用したつもりもない。

どんな素敵な人に惹かれても、かっこいい人にうっかりどきどきしてしまっても、わたしの心に住んで大地みたいに動かないのは、クリフトだけなのよ!」

わたしは腕を掴んで離そうとする勇者の少年の力に抗った。

「無駄よ!言っとくけど、腕力だけじゃあんたにだって負けないわ」

「なんだ、やる気か」

少年の緑の瞳がすっと細められた。

「お前が腕力で俺に勝とうなんて、笑わせるなよ。

腕相撲勝負、255勝254敗でライアンに勝ち越してるんだぞ、俺は」

「あら、わたしだって腕立て伏せ勝負、300勝299敗でライアンに勝ち越してるわ」

「馬鹿め。俺はスクワット対決だって、433勝432敗でライアンに勝ち越してる」

「それがなによ。わたしは反復横跳び対決、508勝507敗でライアンに……」

「ふん。だったら俺は……」

「あ、あのー」

マローニがうんざりして言った。

「それは、そうやってあなたたちが大人気なくムキになるから、そのライアンさんとやらがいつもわざと一敗して、ふたりに花を持たせてくれてるんじゃないですか?」

「そんなことはない!」

マローニのひとことに、わたしと勇者の少年は同時に言い返した。

そのうち、どん、どん、どんとなにかに焦れたように地鳴りが激しくなる。

「……仕方ねえな」

勇者の少年は呟くと、襟首を掴むわたしの手の甲をじっと凝視した。

途端にびりっと電気のような痛みが突き抜け、わたしは悲鳴を上げて手を離した。

「ライデインね!魔法なんてずるいわ!」

「悪いな。こっちも急ぎの野暮用なんだ」

少年は肩先の蛙を大事そうに懐にしまうと、腰の剣を鞘から引き抜いた。

湾曲した輝く柄と、切っ先から左右に伸びる刃の両翼。

七色に輝く不思議な刀身は、この世で彼だけが振るうことの出来る天空の剣だ。

「せっかくだ。お前もついて来い、アリーナ。

結婚の申し込みなんかより、もっと面白いものを見せてやる」

勇者の少年は不敵に笑うと、広間へ向けて小さく顎をしゃくってみせた。
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