初夜
―――Sideクリフト
(王様が突然、すんごく重い病で、お倒れになりましたーーー!)
夜会用に美しく装飾された大広間は、にわかに強い困惑でざわめいた。
「貴き国王陛下がご病気ですと?」
「今朝の謁見ではお元気そうでしたのに。いかがなさいましたのでしょう、急に」
絢爛な絹やびろうどの正装に身を包んだ世界各国の王侯貴族たちは表情を曇らせ、みな一様に不安を隠せないでいる。
「では今宵の陛下主催の夜会は、中止ということなのでしょうか?
ご息女アリーナ殿下について重大な発表があると伺い、急ぎ国より馳せ参じたのですが」
「おお、貴殿もですか?わたしはスタンシアラ王国の大使ですが、同じく」
「一体、国王陛下はなにを発表されるおつもりでしたのか」
「それは姫君もお年頃ですから、いよいよご成婚についてのお話かと」
「だとすればお相手はやはり、亡き王妃殿下の祖国ボンモールの……」
「えー、まことに残念ながら、只今から開催予定の夜会は中止となりました!」
マローニが広間じゅうをコマネズミのように駆け回り、両手を口元で丸めて叫んで回る。
「ですが皆様、どうぞご退出はなさらずに!
サントハイム王に代わりまして、摂政ブライ卿より追って御沙汰がありますゆえ、そのままお待ち下さいませ!」
「マローニさん!これはどういう……」
叫ぼうとして、わたしははっと口をつぐんだ。
(声が、元に戻っている!)
マローニにもらった「ヘリウムガスの種」で、アゲヒバリのように甲高く変化した声。
その特殊な効力が切れたのか、喉から飛び出して来る声は、もうほとんど元通りのわたしのものだ。
「どうしたの?ボロンゴ。先を急ぐわよ」
アリーナ姫はわたしを振り返った。
「心配しなくても、お父様なら大丈夫よ。じつはわたしさっきお会いしたの。いつも通りぴんぴんしてたんだから。
それに夜会がなくなったのなら、なおさら好都合だわ。マローニもお前も、もう歌を演奏する必要がなくなったってことでしょ。
わたしと一緒に城下の教会に来て。お前だって、友達のクリフトに会いたいんじゃないの?」
わたしは声を出さずに首だけ動かしてうんうんと頷き、顔をこわばらせた。
(違うだろう!このまま姫様にのこのこついて行って、どうするというんだ。
決闘を申し込むと言っても、教会に「クリフト」はいないのに……いや、わたしがついて行くんだから、いるということになるのかな?
わ、わからない。わからないぞ……!)
「なによ、どうして返事しないの?
まさかまた、なにかの病の発作が起きたって言うんじゃないでしょうね」
アリーナ姫は苛立ったように、眉間に愛らしい皺を寄せた。
「いい?楽師のお前は知らないかもしれないけど、サントハイム王家の婚姻の誓いには、神に選ばれた立会人が必要なの。
一方が結婚を申し込んで、もう一方が返事するのを聞き届けた証人が、天に向かって心臓と繋がる左の手を上げ、宣言するのよ。
「父なる神よ、大地の子よ、偉大なる聖祖サントハイムよ。
天と地と聖霊の三角形にかけて、青き血を引く者の婚姻の誓いが行われしことを、ここに証明する!」ってね。
お父様とお母様のご結婚の時は、ふたりの兄代わりであり、一番の親友でもあったブライが証人になったらしいわ。
わたし……わたしは、いつか自分がそうする時には、絶対に勇者であるあいつにお願いしようと思ってたの。
あいつは無愛想で素直じゃなくて、旅のあいだは数え切れないくらい喧嘩したけど、不思議とクリフトとは仲が良くて、優しい兄と我儘な弟みたいにとても気が合っていたもの。
でも突然現れたかと思ったら、俺はお前の婚約者だなんて訳の解らないことを言い出すし、もうあいつに頼むわけには行かないわ!
だからお前にお願いするの、ボロンゴ。お前なら信頼できそうだし、それに……」
言って、アリーナ姫は真っ赤になった。
「お前を証人として、クリフトとの結婚を宣言すれば、きっと神さまも許して下さるはずよ。
たった一度の……う、う、浮気くらい!
駄目かしら……やっぱりわたし、貞淑な王女として、いいえ、クリフトに似合う女性として、もう駄目なのかしら」
アリーナ姫はにわかに自分の言葉に青ざめて、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「……ア」
わたしは喉まで飛び出しかかった言葉を、必死で掴んで押し込めた。
(婚姻の誓い?)
まるで生まれたばかりの赤子に戻ってしまったように、耳に入る音が言葉として知覚出来ない。
(わたしがクリフトに、結婚を申し込んで)
(神様から、クリフトをわたしに返してもらうの)
唇が震え、体中の血が分厚い棘になって心臓を刺す。
(結婚?)
どういうことだ?
決闘じゃないのか?
アリーナ様が、わたしに、
結婚を申し込む?
「おおっとぉ!やっと見つけましたよ!我が愛しの相棒、ボロンゴ・クリッフィー・ザ・ハンサム!」
混乱に耐えきれずに彼女の名前を呼んでしまおうとしたその時、マローニが笑顔で猛然と走り寄って来た。
「わたしの大切な仕事仲間、銀縁眼鏡のど派手な色男!いつまでたっても帰って来ないから、とても心配していたんですよ!
やあ、王女殿下もご一緒だったのですね。床に座り込まれたりして、顔色がお悪いですがどうなさったのですか?
さあ、ボロンゴ!わたしたちは次の演奏の予定がありますから、残念ですが早々にここを退散させて頂きますよ」
「マ、マローニさ……」
「しっ!」
マローニは首を振り、わたしの耳元に口を寄せて小声で言った。
「切れたんでしょう、ヘリウムガスの効果が。喋っちゃいけません!
さあ、アリーナ姫とはここで別れて、わたしについて来て下さい。
ここからは楽師のボロンゴじゃなくて、「神官クリフト」の出番ですからね!」
「な、なんのこと……」
「だから、喋るなっつーの!」
さっき怪我したばかりの顎を拳の裏ではたかれて、わたしは飛び上がった。
「痛でーーっ!」
「あれあれ、すいません。大きな蚊が止まっていたんですが、うっかり力が入りすぎてしまいました。
さ、急ぎましょう、ボロンゴ。ではアリーナ殿下、我々はこれにて御前失礼致します!」
マローニは強引にわたしの肩を掴むと、驚くほどの力で引っ張って走り出した。
「あ……ボロンゴ!」
アリーナ姫は顔を上げ、なにか言おうとしてわたしを見た。
(姫様)
わたしとアリーナ姫の距離が遠くなる。
遠ざかる鳶色の瞳に横切る、突然ひとりぼっちにされる不安。
急いで足を止めようとしたが、マローニは容赦なくわたしを引きずって行く。
(駄目だ!アリーナ様をおひとりになんて出来ない)
あんな表情を浮かべた彼女を、どんな理由であれ置き去りになど出来るわけがない。
「離して下さい!」
一番近い柱の陰に隠れると、わたしはマローニの手を振り払った。
「わたしは戻ります。許可も得ぬまま、勝手に姫様のおそばを離れるわけには参りません。
それに一体なんなのです、この騒ぎは?説明して頂けませんか、マローニさん。陛下がお倒れになったとはどういう……」
「クリフトさん、あんたは馬鹿だ!
普段は小利口かもしれないが、王女のことに関してだと本当に馬鹿だ!」
マローニは恐ろしい形相でわたしに食ってかかった。
「どうしてさっさと帰って来ないんです!彼女への告白はまだ後だって、あれほど言ったでしょうが!
いくら変装してたって、いつまでも一緒にいたら、そのうちアリーナ姫だってあなただと気付くに決まってるじゃありませんか!」
「そ、それは申し訳ありません……でも、告白などわたしは」
「あと少しなんだ。ここでしくじってなるものか!わたしには大劇場建設の夢が掛かってる。
伝説のムーランルージュ、歌とダンスが華やぐ赤い風車を、世話になったサランに絶対に建ててやるんだ!」
マローニは呟くと、身につけているトーガの長い裾から丸めた大きめの布包みを取り出した。
「さあ、この中にあなたの服が入っています。サントハイム教会のいつもの神官服です。着替えたらすぐに戻って来てください。
あなたは国王の病の知らせを聞いて、たった今、取るものも取りあえず城に駆けつけた。
ボロンゴとマローニは、次の興行のために既に城を去った。いいですね、わかりましたか?」
「マローニさん、わ、わたしにはもうなにがなんのことだか……」
「こう考えて下さい。いにしえのマドリガル「シンデレラ」と同じく、かりそめの変身の魔法はもはや解けたのだと。
それに、あなたは男だ。硝子の靴なんか持っていない。恋する相手が迎えに来るのを、ぼんやり家で待つ必要もない」
マローニは奇妙に厳粛な口調で言った。
「ここから先は、クリフトさん、あなた自身の力がいるのです。
わたしたちに出来るのは、ほんのすこしの手助けだけだ。
本当はわかってるんでしょう?踏み出すのに必要なのは、神への祈りじゃない。魔法でもない。いつだって自分自身の想いの力だけなんだって。
さあ、見せて下さい。
わたしたちに、この国に、あなたのとっておきの勇気を!」