初夜
―――Sideアリーナ
部屋を飛び出し、大理石の階段を三段飛ばしに降りて階下へたどり着き、広間を荒々しく抜ける。
つい何時間か前もまったく同じように、こうして城内を駆けた。
その時は泣きじゃくりながら、こともあろうに鉄の爪でクリフトの息の根を止めようと考えていたのだった。
それが今、世界がひっくり返ったみたいに心の針が真逆を示し、わたしは彼に結婚を申し込みに行こうとしている。
後ろをよろめきながらついて来るのは、クリフトによく似た楽師のボロンゴ。
呆然とした彼の、派手な服にぶら下がった鈴が、走るたびしゃらんしゃらんと宙を踊る。
「わっ」
心なしかさっきより低くなった声が叫ぶと、長身がバランスを崩してつんのめった。
大広間に続く赤い絨毯の上で、ボロンゴはものの見事に転んで倒れてしまった。
「ちょっと、なにやってるの?なにもない所でどうして転ぶのよ。大人でしょ、お前は!」
「は、はい……申し訳ありません」
ボロンゴは床に顔面をしたたか打ちつけ、真っ赤に腫れた顎を押さえて泣きそうな声を出した。
「ああ……結局また、同じところを怪我した……。
やはり自分の咎が原因の傷を魔法でごまかすなど、神のご意思に反したことだったのだ」
「なに?なんて言ったの?」
「いえ、ひとりごとです!」
ボロンゴは顎をさすって立ち上がり、不安そうにわたしを見た。
「……ところで、本当に行くのですか。教会に」
「もちろんよ!」
わたしは力強く頷いた。
「思い立ったが吉日って言うでしょ。それに、決めたらなんだかとてもすっきりしたの。
きっと、最初からこうするべきだったのよ。クリフトはサントハイム直属の聖職者だから、このままじゃ誰とも結婚出来ない。自分からしたいって言うことも、あの性格だもの、まずないわ。
だからわたしが行くの。わたし自身の言葉で、クリフトをもらいに行くのよ」
「で、ですが、いくら腹が立つからといって決闘など……。
そもそも貴女様と勝負して勝てるわけないではありませんか、わたしが……いえ、彼が」
わたしは眉をひそめてボロンゴを見た。
「違うわよ。決闘じゃなくて、結婚」
「いや、だが」
ボロンゴはまるで聞こえていないように首を振った。
「アリーナ様を決闘して命を絶たれるのならば、不毛なるこの生も、綺羅星のごとき美しい幸福のうちに終われるかもしれない。
そうだ、いっそその時」
「ちょっと、ボロンゴ」
「姫様に、す、す、好きでしたと……。
誰よりもお慕いする貴女に命を奪われて、幸せでしたと……最後だから、そのくらい言ってもいいだろうか」
「ねえったら」
「いや、駄目だ駄目だ!勝手に告白して命を終えて、もしも姫様が死者の呪いみたいで気持ちが悪いとお苦しみになったらどうする?
なにも言っちゃ駄目だ、姫様を困らせるようなことなど、決して言ってはならない……!」
わたしは呆気に取られてボロンゴを見つめた。
もしかしてこの青年は、癲癇以外にもなにかの病を患っているのだろうか。
わたしの訝しげな視線に気づかず、ボロンゴはうつむいて悲しそうにため息をついた。
「……なんて、心配しなくても意気地なしのわたしに、そんなこと言えるわけがないか。
マローニさんの言う通りだ。わたしは朴念仁で面白みもなにもない、薄っぺらの大馬鹿男……。好きでたまらないお方に、ただひとこと想いを告げることすらできない。
一体いつになったら、わたしは自分の想いを言葉にすることが出来るんだろう。
わたしが勇気を出せる日は、もう決して来ないのだろうか」
力無い言葉の、最後の部分だけが耳に飛び込んで、わたしはぴくりと身体を震わせた。
「……」
(なに言ってるの?)
みぞおちが熱くなると、もどかしさに似たなにかが背中を押す。
(なによ。どうしてそんな簡単に、諦めるのよ)
(弱気になっちゃだめよ。自分に負けちゃだめなのよ)
どうしてだろう?
ボロンゴは確かにとても話しやすく、顔だちもとても好みだけれど、さっき会ったばかりの素性もわからない流浪の楽師だ。
なのにどうしてわたしはこんなにも強く、彼を励まさなければ!と思うのだろう?
どうしてわたしはこんなにも、彼に力を与えたい、と思うのだろう?
彼が勇気という名の力を得たら、わたしたちに一体、なにが起きるというんだろう?
わたしは肩を落とした彼につかつかと近づき、力任せに背中をばしんとを叩いた。
「痛たぁーっ!!」
「まったく、だらしないわね!」
飛び上がったボロンゴを、力を込めた瞳で睨みすえる。
「さっきからなにをひとりでグチグチ言ってるのよ、男らしくない!
勇気を出せるかですって?どうやらお前は大きな勘違いをしてるみたいだわ、ボロンゴ」
唖然とするボロンゴに頷きかけると、わたしは両手を広げて前方に突き出してみせた。
「いい、よーく聞きなさい。勇気はね、希望と同じ言葉。
出すものじゃない。掴むものなのよ。
踏み出したいと思う気持ちは、ほんとうはわたしたちの身体の中にあるんじゃなくて、まるで馬の前に吊るしたニンジンみたいに、いつも目の前にふわふわ浮かんでいるの。
でも幸せなことに、走ってもつかめない馬とは違って、わたしたちにはこの両手があるわ。
だから簡単よ。身体をねじったり頭を悩ませてひねり出すんじゃなくて、全力で走って手を伸ばして、この手で掴めばいいだけなの!
ねえボロンゴ、わたしたちは神様じゃない。
人間というもろくて弱い生き物で、もしかしたら明日、突然死んじゃうかも知れないわ。
それでも大事なものを前に、そうやっていつまでもぐずぐずしているつもりなの、お前は?」
銀縁眼鏡の奥の蒼い瞳が見開かれた。
まばたきを繰り返し、言葉を出すのを恐れるように呟く。
「で……でも、わたしは……」
「悩んだ時に「でも」は禁句よ」
わたしは笑って、差し出した手でボロンゴの頬にそっと触れた。
「お前の勇気は、お前だけのものだわ。
欲しいと思った時が掴まえる時なの。迷った時が踏み出す時なの。
頑張って。わたし、待ってるから。
お前の勇気を、わたしはずっと待っているから。クリフト」
(あ、名前間違えた)
だがそう思った瞬間、目の前の長身が揺れた。
ボロンゴは唇を噛みしめて俯き、一瞬ののち、わたしの手の上にそっと手を重ねた。
「……ありがとう」
端正な顔が傾くと、眼鏡の奥の瞳が閉じられて、掌に頬が押しつけられる。
「……ありがとうございます。姫様」
「いっ、いいえ!」
(きゃーーっ!!)
わたしは真っ赤になって、あわてて手を振りほどこうとしたが、何故かそう出来ず立ちすくんだ。
ボロンゴの頬の温かさが、掌を通して身体じゅうに伝わって来る。
伏せた睫毛が無防備に震えて、まるで泣くのを必死に堪えている子供みたいだ。
(なんて優しい、悲しい、無垢な表情をするんだろう。
……ぎゅって、してあげたいな)
わたしははっと青ざめた。
(駄目、駄目、駄目っ!ど、どうしよう!わたしったらなんてことを……!
よりによってこれから、クリフトに結婚を申し込もうっていう時に)
19年間生きて来て、初めて彼以外の男性に衝動的にときめいてしまった。
(浮気だわ、これは!わたし、クリフトに隠れて浮気してしまった……!)
「姫様、聞いて頂きたいことがあるのです」
わたしの動揺を知ってか知らずか、ボロンゴは壊れ物を扱うようにうやうやしい仕草で手を離した。
身体を前に傾け、こちらへ真っ直ぐに視線を合わせる。
「わたしは貴女様に、心よりお詫びしなければならないことがあります」
「え……?」
落ち着きを取り戻したボロンゴの声は、先ほどよりまた低くなっている。
「な……なあに?」
「今日一日、長きにわたってこれ以上ないほどの無礼を働き、もはや申し開きの言葉さえありません」
沈痛な面持ちで頭を下げると、ボロンゴは後ろに手をやった。
虹色のサッシュの結び目を掴み、一息にほどこうとする。
「このような出で立ちで貴きアリーナ様をたばかり、この上どのような罰も受ける覚悟です。
……じつは、わたしは……楽師のボロンゴではなく」
「大変だああ!」
その時、大広間の方角から城中に響き渡る叫び声が飛んだ。
ボロンゴは驚いて振り返った。
「この声は……マローニさん?」
「王様が、王様がお倒れになられた!
はい、聞こえますかあ、しっかり聞いて下さいよ。今宵の夜会にご参加予定の、世界各国のお偉方の皆さーーん!
サントハイムの王様が突然、すんごく重い病で、お倒れになられましたーーー!」
「そんなのさっき聞いたわよ」
わたしは呆れて言った。
「おまけにあれは、仮病じゃないの」
「仮病?なんのお話ですか?国王陛下の御身になにか?」
ボロンゴの顔がみるみる厳しくなった。
「これまで病ひとつ召されたことがない陛下が、突然お倒れになるなど。
それになぜお倒れになるや否や、即座に重い病だとわかるのでしょう」
「そりゃ、仮病だからでしょ」
わたしは肩をすくめた。
「心配しなくても平気よ。この一件にはお父様自身と、なぜかブライも噛んでるみたいなの。
理由はわからないけど、こうしてみんなでお芝居することが、のちのちこの国にとってすごくためになるらしいわ」
「お芝居?」
ボロンゴはその言葉にふと眉根を寄せ、考え込むように首を傾げた。
「……みんなでお芝居、か」