初夜



―――Sideクリフト





「そ、そう言われれば確かに、クリフトさんはそのような方がいるとおっしゃっていた気がします」

(馬鹿!なにを言ってるんだ、わたしは……!)

思わず答えて動転し、わたしは自分の頭を両手でばしばしと激しく打った。

「ふたりきりになれたという望外の喜びに増長し、貴き姫様に対してなんと思い上がった言葉を!

いったい何様のつもりなんだ、わたしは?愚かな!愚かな!」

「ど、どうしたの。止めなさい、ボロンゴ!」

アリーナ姫は獲物を捕らえる猫のように、素早くわたしの両腕を掴んで止めた。

そのまま驚くほどの力で引き寄せると、ずいと身体ごとにじり寄る。

「ちょっと聞かせて。クリフトはほんとうに、お前にそう言ったのね?」

「え……?は、はあ、いえ」

「子供の頃からずっと一緒にいて、これからも離れたくない存在がいるって、彼は確かにそう言ったのね?!」

(わーっ、顔が近い!)

必死に後ろに逃げようとしたが、アリーナ姫の握力は恐ろしく強く、まるで伝説の魔狼フェンリルを繋いだ神の紐グレイプニルのように、引けども引けどもびくともしない。

わたしとアリーナ姫は紅いソファの上で、半分折り重なるように身体を寄せて向かい合った。

にこりともせずこちらを凝視する彼女の、蜂蜜色に輝く瞳。

今にも鼻先がぶつかりそうで、みぞおちが縮こまり、背中におかしな汗がどっと吹き上がる。

「どうなの、ボロンゴ!教えなさい!クリフトは言ったの、言わないの?」

「言いました!」

寄せた額から甘い髪の香りが、とどめを刺すように鼻孔に飛び込んで、混乱のあまりわたしは無我夢中で叫んでいた。

「わ、わたしは、ずっと姫様のお傍にいたいのです!

初めて会った子供の頃から貴女のことだけが好きで、これからも決して離れたくない!

ですからお願いします、も、もう少しお顔を離してくださ……!」

そのとき、アリーナ姫の手が力を失ってするりと落ちた。

(しまった)

わたしは青くなり、急いで「……と、クリフトさんが言っていました」と付け足そうとし、驚いて言葉を失った。

いっぱいに開いた彼女のふたつの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。

「……ほんとなの?それ。

本当にクリフトが、そう言ったの?ボロンゴ」

「ア、アリーナ様……」

「ねえ、それって、その「好き」って」

アリーナ姫は引きつけた子供のように、肩を震わせてしゃくり上げた。

「朝摘みのアニスの葉にクルミのソースをかけて食べるのが好きとか、教会のフレスコ画が好きとか、寝る前に紅茶を飲んで聖書を読むのが好きとか、

そういう種類の、ないと嫌だけど、でもなくても我慢できる「好き」じゃないわよね」

わたしは顔を赤くした。

どれも全部、子供の頃からわたしが好きなことだ。

「それがもし、ほんとなら……わ、わたし、クリフトの気持ちも知らずに、すごく怒っちゃった。

ふたりで弾いたオカリナを、旅人に向かって石を投げる意地悪なゴブリンみたいに、クリフトの顔に思いきりぶつけたの」

わたしははっとして、思わず顎を押さえた。

(そう言えば……いつのまに)

指で触れてもすでに痛みはなく、あれほど酷かった腫れも嘘のように綺麗にひいている。

傷のあった部分から、霧のようなかすかな魔力の残滓を感じ、わたしは驚いて宙を見つめた。

(まさか、エルレイ司教?)

(わたしが変装して城に潜入するのを知って、アリーナ様に気付かれないようにと傷の回復を?)

(クリフト、あの王女はいかん!ありゃあいかんぞ!)

あれほどアリーナ姫を厭っていながら、わたしがマローニと城へ向かう時、なぜか自室から出て来なかったエルレイ司教。

気付いていないのだろうと思ったが、考えてみれば稀代の白魔法の使い手である司教が、わたしの気配が消えるのを解らぬはずがない。

楽師の衣装を用意していたマローニ、知らぬふりを決め込んでわたしを城へ向かわせたエルレイ司教。

(よう、楽師。腕に期待しているぜ)

(村の外にはこんなふうに、面白いことがたくさんあるんだな)

そしてなにかに導かれたように、絶妙のタイミングで現れた天空の勇者の少年。

まるで皆が示し合わせ、見えない糸でわたしをたぐり寄せて、ひとつの答えへと向かわせているかのようだ。

(ならば、わたしはどうすれば)

(ここまで来て、こうしてお傍にいて、アリーナ様の幸せのために、わたしは一体どうすれば)

ばらばらにちぎれた原形をとどめない絵が、頭の中心に集まって緩やかにひとつの形を描こうとした時、

「決めたわ!やっぱりわたし、クリフトのところに行く!」

アリーナ姫の鋭い叫びが思考を遮った。

「今すぐ教会に行って、クリフトに謝るわ。……そして」

続いた言葉に、わたしは驚愕して口を開けた。

「わたしからクリフトに、結婚を申し込むわ!

この国が古いからとか、神さまの存在が矛盾してるとか、難しいことはわたしにはよく解らない。

でもどんな神様にも、好きな人と一緒にいたいって気持ちを邪魔する権利なんてないはずよ。

わたしはこのサントハイムの王女として……そんな意地悪な神様、いらない!

起きなさい、ボロンゴ。お前も一緒に来て、わたしたちふたりの証人になってちょうだい!」

「し……証人とは……」

わたしは呆然と尋ねた。

「好きな人に結婚を申し込むの。そしてその人は今、自分の全てを見えない世界に捧げているから」

アリーナ姫は決意に満ちた表情でほほえんだ。

「神さまから、クリフトをわたしに返してもらうのよ」
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