初夜



―――Sideアリーナ





ボロンゴはようやく回復して来たのか、顔色はまだ悪かったが、眼鏡の奥の瞳がためらいがちにわたしを見つめた。

(どうしてサントハイムの教会に勤める人たちは、みんな結婚できないの?)

なぜわたしは、出会ったばかりの正体不明の青年にこんなことを尋ねているのだろう。

だが戸惑いは、彼に聞きたいという訳の解らない衝動にあっけなく押しのけられ、わたしはボロンゴがソファから起き上がると、傍らに座って真剣な表情で彼を見上げた。

なぜかこの青年なら、わたしが望む答えを導き出してくれる気がする。

それは予感というより確信だった。

「つまり、アリーナ様がお聞きになりたいのは……」

ヒバリのさえずりのような奇妙な声は、気のせいか先ほどより少し低くなったようだ。

ボロンゴはまたしても、クリフトにそっくりな仕種で思わしげにこめかみに手をやり、慎重に言葉を選んで話し始めた。

「エンドールや諸外国の聖職者が自由に婚姻を交わしているにもかかわらず、サントハイム直属の聖職者はなぜ妻帯しないのか、ということですね」

「うん」

「それは簡単に言うと、宗派の違いです」

「宗派?」

「宗教論を振りかざさず、噛み砕いた言葉に変えるのが非常に不得手なのですが……。では、わたしの解る範囲でお話し致しましょう」

ボロンゴはいったん言葉を切って考え、続けた。

「つまり、ごくわかりやすく言えば、神を信じる手段の違いです。

敬虔に神を尊ぶ信心には、どこの国であろうとなんら違いはありません。ただ、ある種の国にとって宗教とはひとつの文化なのです。

それゆえ、肌や瞳や髪の色がそこかしこの国によって違うように、大陸によってじつに様々な信仰手段が存在します」

ボロンゴの蒼い瞳の光が、本人の気付かぬうちに少しずつ濃くなって行く。

「たとえば食事ひとつ取っても、わたしたちサントハイムの民は朝食の際、必ず香草料理を口にします。

偉大なる聖祖サントハイムがもたらした大地の恵みに深く感謝し、一日の始まりに命のすみずみまで植物の力を沁み通すためです。

反対に、エンドールにはあまり香草や薬膳料理を食する風習がありません。多民族国家のエンドールはキングレオやハバリアからの開拓者たちが海を渡り建国した、開闢五百年にも満たぬ新興国です。二千年の歴史を持つサントハイムとは、文化も宗教形態も全く違う。

先住民を徹底して排除し、軍事化を国是として成長したエンドールには、古くからの土着の神への信仰がありません。

つまり前衛的な宗教者の手で時代と共に信仰制度は改革され、徐々に変化して来たのです。それによって自由精神が尊重され、いつしか聖職者の妻帯も認められるようになった。

ですが、古き青き血を守り続ける万世一系の王国サントハイムでは、そう簡単に変革はまかり通りません。

王女殿下であるアリーナ様には御不興な話かもしれませんが、我が国の信仰制度には、じつはある致命的な矛盾があるのです」

ボロンゴは迷うようにしばらく黙り、再び語り始めた。

「わが国では、聖祖サントハイムの血を受け継ぐ王家一族を、生ける神……現人神(あらひとがみ)だと位置づけます。

サントハイムの民にとっては、世界の創世神よりも水晶の湖から生まれこの国を築いたという謎の聖人サントハイム、そしてその血を引く王家こそが、最も崇めるべき主神であるわけなのです。

ですが、そこで生まれる問題があります。

我々サントハイムの民は教会で創世主に祈り、玉座の御前で聖なる王家を崇め、いったいどちらを唯一無二の神として信じるべきなのかと。

ただ、これについては詳しい文献が残されているのですよ。サントハイム福音書の「本地垂迹(ほんちすいじゃく)の章」に、聖祖自身が記したと思われるある一文が……」

「……」

勢い込んで語り続けていたボロンゴは、唖然とするわたしに気づき、はっと我に返った。

「あ、その……え、えーとですね、以前にクリフトさんがそう言ってたのを聞いたんです、確か……!」

「……なあんだ」

わたしは安堵のため息をついた。

「やっぱり貴方たち、知り合いだったのね。今の熱っぽい神様語り、びっくりするくらいクリフトとそっくりよ。

我が国っていうことはボロンゴ、お前はサントハイムの生まれなのね。クリフトと、もう長いこと仲がいいの?彼のことをよく知ってるの?」

「知っていると言えば誰よりも、これ以上ないほどすべて知り尽くしていますが……」

「誰よりも?」

反射的にわたしはむっとした。

「誰よりもって、どうしてそんなことがわかるのよ」

「え」

「お前の他にもっと、クリフトのことを深く理解している存在がいるかもしれないでしょ」

「そ、そのような存在はわたしには……いえ、彼には」

「だから、たとえば」

わたしはえへんと咳払いした。

「たとえばクリフトが子供の頃からずっと一緒にいて、とっても仲が良くて、誰よりも解り合ってて、

この人と離れたくないな、これからもずっと一緒にいたいなって思う存在がいるって、か……彼は、お前に言ったことがなかったかしら?」

ボロンゴは小さく首をかしげたが、すぐに誰か特定の人物を思い浮かべたのか、蒼白かった頬にみるみる血の色が昇り、やがて林檎のように赤く染まった。
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