初夜



―――Sideクリフト





(ねえクリフト、お前なら、大きくなって腕だめしの旅のお供にしてあげてもいいわよ)

(わたし、この匂い好きよ。教会のお香の白檀の匂い。ああ、クリフトが傍にいるって気がして、すごく安心するもの)

(どこにも行っちゃだめ。お前はいつでもわたしを守っていて)

(いいわね、クリフト。命令よ)


(命令よ)




あれは、いつのことだったろう?

生来の気の強さで王女らしくつんと顎を上げて、でも不安げにこっそりとこちらを盗み見る、鳶色のあどけない瞳。

勝気な物言いが我儘であればあるほど、心を許してもらえているのだと思えて、胸がどきどきするほど嬉しかった。

この方のためならいつだって自分は凶悪な刃の前に身体を倒し、荒ぶる炎の海に飛び込むことだって出来る。

そう思えたのはなぜだったのか、聖書を読んで神の教えに心をほどくように、理由がわかれば簡単だけれど。


(理由なんかないんだ)


それはまるで磁石が強い磁力に引かれるように、清らかな水が低きに流れるように、雲が大地に銀色の雨を落とすように。


(わたしがここにいること、それがたったひとつの理由なんだ。


わたしはアリーナ様を想うために、生まれて来たんだ)




「ボロンゴ」

目を開けると、子リスのような大きな瞳が心もとなそうにこちらを覗き込んでいる。

「……アリーナ様……。

わ、わたしは」

「大丈夫?お前、また倒れたのよ。てんかんの病ってとても大変なのね。

一度、きちんとお医者様に診てもらった方がいいわ」

いつのまにかわたしの体は鹿皮を紅く染めて張ったソファの上に横たえられ、肩に絹のストールが掛けられていた。

腕を持ち上げるとしゃらんしゃらんと鈴が鳴って、自分がマローニと共に城に潜入した、楽師の「ボロンゴ」であることを思い出す。

「……姫様が、わたしをここに?」

「うん、そうよ。わたし、腕力にはすごく自信があるの。

お前は背が高いけどわりと細身だから、片手ひとつで持ち上げられるわ。なんだったらもう一度やってみましょうか?」

「い、いえ」

アリーナ姫の顔が近づき、掌が頭に締めた虹色のサッシュをくぐってわたしの額に触れる。

「どうやら熱はないみたいだけど……ん?なんだか、急に熱くなってきたみたい」

「だ、大丈夫です!」

わたしは慌てて顔を引き、アリーナ姫の手から逃れた。

冗談ではなく、このままの状態では本当に発熱してしまう。

「本当はね。わたし、お前がクリフトなんじゃないかとほんの少し疑ってたの。

だから気を失ってる間に、眼鏡を取っちゃおうと思った」

アリーナ姫が悪戯そうにくすくす笑ったので、わたしは青ざめた。

「大丈夫よ、そんな困った顔しないで。

眠ってる誰かの体に勝手に触れるなんてこと、絶対によくないわよね。だから止めたの。

それにお前がクリフトなはずないわ。クリフトはそんな声をしていないし、そんな派手な服は着ないし、それにてんかんの病は持っていないもの」

「……そ、そうですか」

「お嫁さんのことは、どうやらお前にも解らないみたいね。

わかるのは、サントハイムの聖職者達はたぶん皆生涯を通して結婚しないってことだわ。それとも、揃いも揃って女の人嫌いなのか」

さあっと頭から血が落ちる音が、耳の裏で響く。

アリーナ姫に気付かれないように手を動かして、わたしは鼓動を速める左胸を押さえた。

(息が苦しい……!どうしたのだろう、視界が渦潮に飲まれたようにぐるぐる回る)

(さっき、姫様からとても大事な言葉をお聞きしたような気がしたけれど)

(な、なんだったのだろう?記憶が混濁して……忘れてしまった)

(アリーナ様は、どうしたいとおっしゃっていたのか)

(お嫁さん?お嫁さんって、誰のだ?)

「でもわたし、旅の最中に結婚してる神父さんをよく見かけたんだけどな。

お嫁さんととっても仲よさそうに微笑みを交わして、ひとつのテーブルを囲んで食事してた。確かあれは、エンドールの寺院だったわ」

アリーナ姫は思案げに首を傾げてわたしを見た。

「ねえボロンゴ、楽師として世界じゅうを旅して回るお前なら知っている?

どうしてサントハイムの教会に勤める人達は、結婚できないの?」
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