初夜
―――Sideアリーナ
ボロンゴは一瞬、何を言われたのか解らないようにぽかんと唇を開いた。
気恥ずかしさに頬がみるみる熱くなり、わたしはしどろもどろになって付け足した。
「ち、違うのよ!別にその、今すぐにっていうわけじゃなくて……!
ただもしもそうしたいと思った時、世間のみんなはどうしてるのかなーなんて、へへ、えへへ……」
だが乾いた笑い声は空々しくて、照れ隠しはあまりに見苦しく響く。
わたしはついに観念して、ため息をつくとソファに座り、隣を手で指し示した。
「……座って、ボロンゴ。ちゃんと話すから」
けれど返事は返って来なかった。
「ボロンゴ?」
「は、はいっ」
ボロンゴははっとして頷いたが、突然気分でも悪くなったのかひどく青ざめていた。
「ちょっと、どうしたの?震えてるわよ。体の具合でも悪いの?」
「……ひ、姫様は」
ボロンゴはわたしの声が聞こえないように、呆然と尋ねた。
「ま、ま、まさか……聖職者にご好意を、お持ちなのですか」
「う、うん。それはだから……えっと」
とっさに言い訳を考えようとして、わたしは諦めた。
今さら何を弁解しようと言うんだろう。
これまではっきり口にしなかったわたしの優柔不断さこそが、こんなわけの解らない事態を生んでしまった原因かもしれないのに。
いつまでも自分をごまかし続けることなんて、出来るはずないのに。
わたしは、クリフトだけが好きなのに。
「……そうね。お前にはちゃんと正直に言うわ。わたしの好きな人は、じつは城下の教会にいるの。
名前はクリ……」
「エルレイ大司教だけは、絶対にお止めになって下さい!」
甲高い声が猛然と遮り、わたしは呆気に取られてボロンゴを見つめた。
ボロンゴはわたしに必死の形相で詰め寄り、眼鏡の奥の蒼い目は我を失ったように見開かれていた。
「た、確かにあのお方は非常に高貴な聖人で、わたしなど足元に及ばぬほどたぐいまれな見識を備えていらっしゃいます。
ですが無礼を承知で申し上げますと、あのお方はあまりにご気質が俗世擦れし過ぎていると言いますか……そ、それにあ、貴女様とは、いくらなんでもご年齢が離れすぎて……!」
「エルレイって、エルレイ爺のこと?」
わたしはきょとんと繰り返した。
大司教であり、黒魔法のブライに比肩する白魔法の旗手としてサントハイムに君臨する老人の、長い髭に包まれた顔が浮かぶ。
「どうしてわたしが、エルレイ爺を好きにならなくちゃいけないのよ」
「ち……違うのですか」
ボロンゴはほうっと安堵の息をついたが、再び青くなった。
「で、では大司教猊下ではないとすれば、もしやスタンシアラご出身のウーゼル司祭ですか?
それともアンブロシウス神父。修行僧のガヘリス。ケイ。意外な所で修道士のマーリン?」
「誰よ、それ?教会に新しく来たばかりの人たちのことは、まだよく知らないわ」
ボロンゴは慄きに耐えきれないようにわなわなと唇を震わせ、肩で息をしながら尋ねた。
「で、で、では……一体」
「お前、知り合いなんじゃないの?」
ボロンゴのあまりの取り乱しように、逆にわたしはすっかり冷静さを取り戻した。
「クリフトよ。クリフト。
わたしが四歳の時、初めて城市の教会の礼拝にブライに連れて行かれたの。
五つ上のクリフトも、その頃サランの修道院から特別寄宿生としてサントハイムに移って来たばかりだったから、
クリフトが城下の教会で暮らすようになって、もう十五年近くになるのかな……って、きゃああ!」
ふいにボロンゴの蒼い目が瞼の奥に消え、糸の切れた操り人形のようにその場にどっと崩れ落ちた。
「ちょっと、ボロンゴ!ボロンゴったら……!どうしたの?!」
すっかり失神してしまったボロンゴの首はがくりと折れ、紙のように白くなった顔に、銀縁の眼鏡が斜めに歪んで被さっている。
(なに?なんなの、この人?さっきから声も態度もおかしいし、ひょっとしてなにかの持病でもあるのかしら?
ど、どうしよう……わたし、回復呪文もなにも使えないし……)
だが慌てふためく心に、いつのまにか違う種類の動揺が混じり込んでいるのに気付く。
わたしはごくんと息を飲んで、気を失ったボロンゴの顔をじっと見つめた。
血の気が引いて蒼白になった、端正なおもて。
見つめるだけで胸が騒ぐ。
なぜだろう、上手く言えないけれどどうしようもなく、好きな顔だ。心を掴む顔だ。
(クリフト……?)
(この人、ほんとうはクリフトじゃないの?赤の他人がこんなに似るなんてことがあるかしら)
(でも声も違うし、第一こんなおかしな格好、あの真面目なクリフトがするわけないし)
(もしかしてこの眼鏡を取ってみれば、わかるかもしれない)
恐る恐る手を伸ばして、鼻先まで斜めにずり下がった銀縁のフレームを、両手でつかむ。
(ごめんなさい……!
お前の顔を、よく見せて!)
えいっとひと思いに取り去ろうとしたその瞬間、ぱちりとボロンゴが目を開いた。
「わーーーっ!」
「きゃあああ!」
ふたりは悲鳴を上げて後ろに飛びすさり、背中が勢いよく壁にぶつかると、ようやく動きを止めた。
口を開けて呆然と見つめ合う。
「……ボロンゴ?」
「は……い、いえ……姫様?アリーナ様?」
ボロンゴは辺りを見回すと、はっとしたように真っ赤になり、すぐさま真っ青になると両手で頭を抱えた。
「わ、わたしは……ゆ、ゆ、ゆ、夢を見たんだ。きっとそうだ。
なんて愚かな……思いつめるあまり、ついに現実と夢の区別もつかなくなってしまったなんて、わたしは神官失格だ!」
「え、神官?」
「いっ、いえ!あ、あまりの苦しみに身体じゅうが震撼しています!
大変申し訳ありません、わたしは、じつは癲癇の病持ちで」
「てんかん?そ、それは大変ね……でも、無事に気がついて良かったわ」
(眼鏡、取り損なったけど)
わたしは気を取り直して言った。
「とにかく、ボロンゴ。もう一度言うけど、わたしが好きなのは教会にいるクリフトなの。
あの長い旅を終えてから、ブライやお父様にことあるごとに、お前も王女としてそろそろ、自分の身の振り方について真剣に考えろと言われてきたわ。
でもわたし、一度だってそんな言葉に耳を貸したことはなかった。自分の生き方くらい、自分で決めると思っていたもの。
だけど、こんなふうに強硬手段を取るなら話は別よ!よりによって遠い山奥の村から、なんの関係もないあいつまで駆り出して来るなんて許せないわ!
だから教えて欲しいの、ボロンゴ。わたし、クリフトと結婚したい。でも城下の教会で働く人たちはみんな、お嫁さんをもらっていないわよね?
どうすればいいの?どうしたら、わたしはクリフトのお嫁さんになれるの……って、きゃああ!」
ふいにボロンゴの蒼い目がふっと瞼の奥に消え、糸の切れた操り人形のようにその場にどっと崩れ落ちた。
「ちょっと!ボロンゴ!ボロンゴったら!
どうしたの……って、これさっきやったじゃない!」
がくがくとゆさぶったが、すっかり気を失ったボロンゴは微動だにせず、派手な衣装の裾に下がった鈴の群れが場違いにしゃらん、と鳴った。