初夜



―――Sideクリフト





アリーナ姫はどうやら、楽師ボロンゴの正体がわたしだとは全く気付いていないようだった。

(それもそうだ。この声にこの出で立ち、天地がひっくり返ってもわたしだと思うはずはない)

彼女の表情はくるくる色を変え、笑ったり焦ったり考え込んだりまるで万華鏡のようで、それでも波が砂を削り取るように、深い悲しみが心を侵食しているのが解る。

(マローニさんが、そんな非礼な歌を歌っていたなんて……)

国王陛下の御命とはいえ、もっとやり方があっただろうに、彼にそんな手段を取らせ、アリーナ姫を傷つけた原因がわたしだということが、これ以上ないほど胸を締めつけた。

(やはりここに来たのは、間違いだった)

(陛下の思し召しどおり姫様の前から姿を消し、二度と会わないほうがよかったのだ)

(わたしの存在が姫様のお幸せの枷になるなんて、とうの昔に解っていたはずなのに)

わたしはどうしてこんなにも、愚かで罪深いのだ?

わたしは神に命を捧げた者で、敬愛するサントハイム王家に仕える者で、ただそれだけのなにも持たない人間なのに、どうして姫様を好きになってしまったんだ?

「ねえ、ボロンゴ」

その時アリーナ姫が言った。

「お前は吟遊詩人と共に旅する楽師なんだから、さぞかし色々な国を巡って来たんでしょうね」

「え……は、はい。その、まあ」

「恋人はいるの?大切に思う女の人は。旅の間、その人とはどうしていたの」

「……大切に、想うお方は」

わたしは少し黙ってから、静かに答えた。

「います。ずっと……もうずっと、小さな子供の頃から」

(ずっと、貴女だけを)

「そのお方とは、恐れ多くも二年もの間、傍らで共に旅をさせて頂きました。

神がわたしにお与え下さった、夢のように幸福な時間でした」

「同じ楽団の仲間か何かなの、その人は?」

「仲間……では、ありません」

わたしは考えて言った。

「そのお方は元来、仲間などと決して思ってはならぬお方なのです。

わたしは孤児出身の身分卑しい一介の輩で、なんの地位もない取るに足らぬ市井の民だった。

あのお方と肩を並べて歩くことなど、本当なら絶対に許されないはずだった。

なのに周囲の計らいによって、特別に幼少より共に過ごすことを許され、愚かにも勘違いしてしまったのです。

好きになってもいいのではないかと。

いつまでもこのまま、お傍にいてもいいのではないかと。

今はもう、悔いても詮ないことですが」

「そう……楽団にも、身分制度があるのね。とても辛い恋をしていたのね」

「辛くはありません」

わたしは微笑んだ。

「この恋が辛いのか、わたしにはよく解りません。他に恋をしたことがないからです。

ただ、どんなに苦しくても、もう二度と会うことが叶わなくなったとしても、もしもこの命が塵のように明日消え失せたとしても、


輪廻転生を繰り返してわたしは必ずまた、貴女だけに恋をするでしょう」


わたしとアリーナ姫の瞳が重なった。

「あ……いえ、も、申しわけありません!貴女ではなくて……」

「会えなくても恋をするの?」

アリーナ姫が小さな声で尋ねた。

「それでいいの、お前は?わたしは、好きだったら会いたいわ。いつもふたりで一緒にいたいわ」

「ですが、どうしてもそれが叶わぬこともあります」

「叶わないことなんて絶対にないわ!」

アリーナ姫は叫び、はっと我に返った。

「ご、ごめんなさい。ちょっと気が高ぶっちゃって」

「……いえ」

「馬鹿ね、わたし。お前の恋の話にわたしが怒ったって仕方ないのに」

「深呼吸をして、落ちついて。どうかお心を穏やかになさって下さい」

「うん、ありがとう」

アリーナ姫は胸を反らすとふーっと息を吸って吐いて、くすくす笑い出した。

「お前、顔もよく似てるけど、言うことまでクリフトみたいだわ。クリフトもわたしにいつもそう言ってたのよ。

姫様、落ち着いて下さい。困った時はまず深呼吸をして我を失った心を鎮めましょう、って」

「そ、そうですか」

わたしは顔を赤くした。

わたしの厄体もない繰り言を、姫様はちゃんと覚えて下さっていたのだ。

「そうね、たとえ会えなくても恋する気持ちは変わらない。わたしもそうかもしれないわ。

でもわたし、どうも体と心が別々に出来てるみたいなの。

会えないんだから仕方ないって頭では解ってるのに、足が勝手に振り上がって、えーい、何がなんでもクリフトに会いに行くぞ!って、いつも壁を蹴破っちゃう」

アリーナ姫は自嘲するように呟いた。

「でもきっと、それが都合よく振り回してたってことなのかな。

子供の頃、嫌がるクリフトを無理矢理魔物退治の冒険に引っ張り出したこともあるし、怖い夢を見て眠れなくなって、教会に押し掛けて一緒に眠ったこともあるわ。

考えてみればわたし、いつもクリフトの優しさに甘えてばかりだった」

「そ、そのようなことは……!」

言いかけてわたしは口をつぐんだ。

(わたしに何が言える。今のわたしは、クリフトじゃない……!)

「次に会ったら、ちゃんと謝るわ。今まで迷惑かけてごめんなさいって。

これからはお前に頼らなくても生きていける、自立した女の人になるから、き……嫌いに、ならないでねって」

アリーナ姫は頬を膨らませてもごもごと何か呟いていたが、意を決したようにわたしを見た。

「ねえ、ボロンゴ」

「はい」

「お前は世界中をあちこち旅していて、いろんなことをたくさん知っているわよね」

「いえ、決してそのようなことは」

「わたし、ずっと知りたいことがあったの。

誰にも、どうしても聞けなくて……でも不思議ね、お前にならなんだか素直に聞けるような気がする」

アリーナ姫の真剣な表情に、わたしはたじろいだ。

「な、なんでしょうか」

(勇者様との恋の相性なんて聞かれたら、どうすればいいんだ?)

「その、あの、その……ね」

アリーナ姫は両の人差し指の先を合わせて、もじもじと尋ねた。

「もしもよ。もしも……もしもわたしが、


神に身を捧げた聖職者さんと結婚したいと思ったら、どうすればいいのかな」
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