初夜
―――Sideアリーナ
少年から投げられた言葉が頭を巡るたび、慟哭を堪えて噛んだ唇が痺れる。
それでも心で望む言葉をちゃんと口に出来たのは、ただこの思いがあるからだった。
クリフト以外の人間の前で、絶対に泣きたくなんかない。
「さあ、入って。ここがわたしの部屋よ」
わたしが促すと、ボロンゴという背の高い楽師は戸惑ったように一瞬視線を泳がせたが、やがて丁寧に頭を下げた。
「で、では恐れながら……失礼致します」
わたしは先ほどの悲しみも忘れ、思わず吹き出した。
「ごめんなさい!駄目ね、こんなの失礼だわ。
でもおかしくて。聞けば聞くほど面白い声なんだもの。ほんとうに、それがお前の地声なの?」
「は、はい……その、申し訳ありません」
ボロンゴは困ったように俯いたが、わたしをちらりと見るとふーっとため息をついた。
「……よかった」
「え?」
「姫様が笑っていらっしゃるから」
銀縁の眼鏡の奥の蒼い瞳が、安堵したようにそっと伏せられる。
その途端、何故かみぞおちがきゅうっと熱くなって、わたしは慌てて目を逸らした。
「ば、馬鹿ね、わたしが笑ったのはお前の声によ。
お前こそ初対面の人間に自分のことを笑われたりして、嫌な気持ちにならないの?」
「いえ、特に」
ボロンゴは肩をすくめた。
「わたしも自分で、なんと奇妙な声だろうと思いましたから。
……あ、いえ、思っていますから」
「楽器をかき鳴らす楽師でよかったわね。その声じゃ残念だけど、歌い手はちょっと無理みたい」
「そうですか?」
ボロンゴは喉を押さえて、あ、あ、と声を出し、不安そうな顔をした。
「教会で讃美歌を歌わなくてはならないのに……。ちゃんと元に戻るのかな、これ」
「え?」
「なんでもありません」
焦ったように笑うと、珊瑚色の唇の隙間から真っ白な歯がきらりとこぼれる。
青年と目があった途端、今度は心臓がずきんと疼いて、わたしは動揺し頭をぶんぶんと振った。
(こ、これはなにかしら?一体)
小さな頃、お酒の杯を水と間違えてうっかり飲んでしまった時みたいに、突然体温が上がる感覚。
わたしは胸をどきつかせながら、南国の蝶のように派手な出で立ちをした楽師の青年をそっと眺めやった。
(さっきは動転してて気付かなかったけれど……この人、クリフトにすごくよく似てるんだわ。
背が高くて足が長くて、それに蒼い目。尖った顎の線とか、綺麗な形の耳朶もそっくり)
(もしもクリフトが神官じゃなくて流浪の楽師だったら、こんな感じなのかな)
頭に巻いた鮮やかな色のサッシュから、まっすぐなさらさらの髪がこぼれ、胸元の大きく開いたチュニカの衣間にしなやかな鎖骨が覗いている。
(……かっこいい)
「駄目よ、ダメダメ!なに考えてるの、わたしったら!」
思わず目がハートになりかけて、わたしは拳でドカドカと自分の頭を叩いた。
「ひ、姫様、何を?お止め下さい」
「浮気は絶対にいけないわ!信じられない。こんなこと、これまで一度だってなかったのに!」
「いけません、姫様!」
ボロンゴは慌てたようにわたしの両腕を掴んで止めた。
その刹那、ふわりと甘い白檀の香りが掠め、わたしは目を見開いた。
「……お前……?」
眼鏡の奥の瞳がはっとこわばり、ボロンゴは急いで手を離して後ずさった。
「こ、高貴な淑女が自分を痛めつけるなど、もってのほかです。どうぞご自愛を」
「……クリフト」
「はい、姫様」
ボロンゴは咄嗟にいらえを返し、耳まで真っ赤になった。
「あ、いえ、その、だ……誰ですか、それは」
「お前は、クリフト」
「わ、わたしはボロンゴです。マロー二さんの仲間の楽師ボロンゴ」
「お前は……クリフトを知ってるのね!」
「え?」
銀縁の眼鏡がずる、と斜めに歪む。
「その白檀の香り、もしかしてクリフトと会ったの?
わたしがお前をここに呼んだのは、実はそのことについて聞きたかったからなの。
突然現れたあいつも、蛙のシンシアさんもマローニも、今わたしの回りにいる顔見知りは誰ひとり信用ならない。
わたしとなんの関係もないお前なら、この茶番劇の真実を外側から少しでも見聞きしているんじゃないかと思ったの」
「し、真実とは」
「そもそもおかしかったのは、城を出てからだわ」
わたしは頬を押さえて考え込んだ。
「オカリナを習いに教会へ行ったら、娘たちが揃ってクリフトに嬌声を上げていた。
そしてその原因は、マローニが街でビラを配って歌っていたからだって……、
クリフトが、お、追いかけ回して来るわたしから逃げるため、一刻も早く恋人を欲しがってるって歌を」
「な……アリーナ様から逃げ回る?そのような話は聞いておりません」
ボロンゴの頬が紅潮した。
「もしそれが事実なれば、一介の詩人が王女殿下に対してあまりな非礼、万死に値します。
今すぐマローニをこの場へ呼び、ことの真意を厳しく糾弾しましょう!」
「も、もういいの、それは。実際にマローニが歌っていたかどうかもわからないし、そもそもそんなことして、彼に何の得があるとも思えないわ。
なにかの目的があって、誰かに頼まれたのならともかく」
するとボロンゴはどこかが痛んだかのように、頬を歪めて俯いた。
「……申しわけありません」
「え?」
「わたしの預かり知らぬ所で、そのように姫様がお辛い思いをなさっていたとは。まぎれもなく、すべてわたしの責任です。
いつまでも煮え切らずにお傍をうろついては姫様のお幸せの邪魔をする、わたしの」
「この騒ぎがどうしてお前のせいなの、ボロンゴ?
……そう、じゃあお前、マローニと一緒に酒場でその歌を演奏したのね」
わたしはボロンゴを安心させるように笑った。
「大丈夫よ。いっときはかーっとなって狼みたいに怒っちゃったけど、もう平気。
それにわたしがクリフトを追いかけ回してるっていううわさも、案外ほんとかもしれないしね」
(あいつの優しさだけを都合よく利用して生きて行くつもりなのか)
(始終べったりのお守り役から、そろそろ解放してやったらどうだ)
(……クリフト)
初めて出会ったのはわたしが四歳、クリフトが九歳の時。
(天使のようなアリーナ姫様に、神のご加護を!)
まだ声変わりしていない声が甲高く叫び、わたしの傍らで少しずつ大人になっていった、大好きな優しい笑顔。
ふたり共に過ごした時は、いつもいとおしい歌のように温かな幸せを彩った。
でももしそれが彼の望みではなく、わたしが無理矢理そうさせていたのだとしたら、いったい彼自身の幸せはどこにあったというのだろう?