初夜



―――Sideクリフト





どうせ名乗るなら何故もっと、洒落た名前にしなかったのだろう。

(プックルとか、チロルのほうが良かったかな……もしくはゲレゲレ?)

俯いてくっくっと笑っている勇者の少年を目の端で捉えると、わたしは無性に不安になった。

そもそも、なぜこのお方がここにいるのだ?

遥かブランカ地方の山奥に住む少年がサントハイムに出向いて来るなど、旅を終えてから初めてのことだった。

ただでさえ人付き合いを好まない彼は、恋人のエルフの少女が人目に触れるのを厭い、自作の木彫り製品を売りにブランカ城市に出向く以外、めったに村を出ないという。

久しぶりに目にした天空の血を引く少年は、相変わらず輝くばかりに美しく、纏っている貴族の正装が美麗な容貌を更に引き立てている。

(なぜこの方がアリーナ様と)

瞬間、さあっと血の気が引くのを感じた。

(アリーナ様のお相手は、貴方もとてもよく知っている方です)

(……ま、まさか)


天空の勇者の少年が、アリーナ姫様のご結婚相手だというのか?


「では後ほど、再びお目もじの栄を授かりますことを」

マローニは深々と頭を下げ、平伏したままのわたしの背中をつついた。

「さあ行きましょう、ボロンゴさん」

「待って!」

不意に呼びとめたのはアリーナ姫だった。

「お前じゃないわ、マローニ。

……貴方よ、ボロンゴ」

わたしは硬直した。

(も、もしかしてばれた……?!)

「貴方、これからちょっとわたしの部屋に来てくれないかしら。聞きたいことがあるの」

「何言ってんだ」

慌てたのは勇者の少年だった。

「お前は今から夜会だろ、アリーナ」

「そんなもの、行かないわ!」

アリーナ姫は毅然と言い返した。

表情は窺えなかったが、声音には明らかな怒りが滲んでいた。

「一体なんのための夜会なの?わたし、お父様からもブライからも何ひとつそんな話を聞いていないのよ。

もしかしてそれが、あんたとわたしの婚約お披露目だとでもいうの?」

「なんですって!?」

思わずガバッと立ち上がったわたしを、少年とアリーナ姫が同時に見た。

「あ……も、申しわけありません」

わたしはささっと素早く平伏した姿に戻った。

「どうぞ、気にせずお続け下さい」

「とにかくわたしは行かない」

アリーナ姫が少年に向き直ったので、わたしはほっと胸を撫で下ろした。

(よ、よかった……。ばれてない)

「理由がわからないことに、黙って従う気なんてないわ。わたしはわたしの信念で行動する」

大きく吸い込んだ息と同時にこぼれる、語気鋭い呟き。

だがそれは何故か、わたしには泣くのを必死に堪えているように聞こえた。

(……姫様?)

「どんなに反対されようと、わたしはクリフトに会いに行く。

わたし、クリフトの意見が聞きたいもの。誰よりも信頼しているクリフトの考えを知りたいもの。

あんたが何を思おうと勝手だけれど、わたしはクリフトを都合の良いお守り役だなんて思ったことは一度もないし、それは……クリフトだって同じはずよ」

平伏しながらそばだてた耳に、彼女が震えながら洩らす言葉が深々と突き刺さった。


「わたしとクリフトのことは、わたしたちふたりにしか解らない。


だからわたしは、クリフト以外の言葉は決して信じない」


「待て、アリーナ!」

走り出しかけて呼び止められ、アリーナ姫はぴたりと足を止めた。

「……わかったわ。夜会にはちゃんと出る。主催者であるお父様を困らせたくないもの。

そのかわり……」

ぎりっと唇を噛むと、廊下中に響き渡る声で叫ぶ。

「あんたが花婿候補だなんて、わたしは絶対に認めないわよ。今にきっと、このおかしな一件の真相を掴んでやるんだから!

さあ来なさい、ボロンゴ!」

「えっ、ええっ!?」

わたしは焦ってマローニを見上げた。

マローニは何故か勇者の少年をきっと睨んだが、少年が肩をすくめるとため息をついて目を逸らし、わたしだけに聞こえる声で言った。

「……ま、構わないでしょう。お行きなさい。むしろ都合がいいとも言えますし。

わたしたちがここに忍び込んだ目的を忘れたわけではありませんよね、クリフトさん」

「で、ですが」

「これを飲んで下さい」

マローニは胸元に手をやると、隠しから小さな赤い粒を取り出した。

「これは、かのアッテムト鉱山から採取して精製したという秘蔵の品、通称「ヘリウムガスのたね」です。

いくら変装が上手くても、声がそれではすぐにばれてしまう。ただでさえアリーナ様は、貴方のことに対しては非常に敏感ですからね。

その代わりまだ、想いを告白するには時期尚早です。わたしが後から追いかけますから、それまで決して自分がクリフトだと名乗ってはいけませんよ!」

「わ、わかりました」

(えーい、ままよ!)

もとより想いを告白する気など毛頭ないが、こうなってしまった以上、今更逃げ道などない。

わたしは覚悟を決めて、怪しげに光る赤い種をごくりと一息に飲み込んだ。

異物が通過する感触が喉を滑ると、みぞおちが燃えるように熱くなる。

「ボロンゴ、早く!」

「はい、姫様!」

呼ばれてとっさに返した声に、ぶっと勇者の少年が吹き出した。

アリーナ姫は驚いてわたしを見た。

「な、なあに、お前のその声?

さっきと全然違うわよ。小鳥の物真似でもしてるつもりなの?」

「い……いえ、これが地声で」

自分の唇からこぼれる燕のさえずりのような甲高い声に、わたしは内心仰天した。

(なんだ、これは!)

アリーナ姫は怪訝そうな顔をしたが、「ま、いいわ」と踵を返した。

「とにかくお前はわたしといっしょに来て。夜会は後で必ず出るわ。それでいいでしょ」

憮然と去る彼女を、勇者の少年はもう追おうとはしなかった。

さぞかし怒っているかと思えば、なぜか彼は面白くてならないように唇の片方を上げ、緑の目をきらきらと輝かせていた。

「ほら行け、楽師。王女殿下のお呼びだ」

「……は、はあ」

「な、言ったろシンシア。村の外にはこんなふうに面白いことがたくさんあるんだ。

蛙のお前とこうやって村を出て来るのも、時々はいいかもしれないな」

懐を覗き込んでひとりごとを言っている姿に、わたしは首を傾げた。

(ずっと狭い村に閉じこもって暮らしているから、すこしおかしくなってしまったのかな……?

あとで心を落ち着けさせる薬草を、たっぷりと差し上げなくては)

だがとにかく今は、アリーナ様の御命に従うのが先決だ。

(姫様)

顔をもたげて凛と歩く彼女の後を追う。

使用人たちは王女に気づくと、みな働く手を止めて深々と臣下の礼をした。

「アリーナ様、ご機嫌麗しゅう」

「今日も太陽のようにお健やかで、王女殿下」

(……どうして誰も気付かないんだ?)

不安が薄雲のように立ち込める。

(姫様のお心は、少しも麗しくなんかない)

(きっとなにか、とても悲しいことがあったのだ)

小さな背中はあんなにも頼りなげに、今にもわっと泣き出すのを堪えるように、必死で伸ばされているじゃないか。

(姫様、どうなさったのですか……?)

だが声なき声に彼女が気付くことはなく、やがてわたしたちふたりは、最上階の王女の間に辿りついた。
16/38ページ
スキ