初夜



―――Sideクリフト





城門を越え、さらに柱廊を抜けると広間へ続く通路を歩く。

マローニが額に嵌めた王家お抱えの輪を見せると、衛兵はあっけないほど容易く門を通してくれた。

華美な装飾を凝らした朱い絨毯の廊下を、使用人たちが忙しなく行き来していて、ある者は広間に飾る大量の花、またある者は銀食器や杯を、脇目も振らずきびきびと運んでいる。

夜会の日に楽師や詩人が城を出入りするのは、決して不自然なことではないらしく、こんな派手な格好をしているというのに、まるで見えていないかのように誰ひとりこちらに注意を払わない。

「で、わたしたちはこれからどこへ?マローニさん」

わたしは指先で、鼻に乗る白銀のフレームを押し上げた。

「クリフトさん、貴方は背が高くて目立つし、あまりに顔が知られ過ぎている。

だから城の中ではこれを付けておいて下さい」と、門前でマローニに手渡された品だ。

「……眼鏡?」

「今流行ってますからね、眼鏡男子。貴方ならぴったりでしょう。いかにも草食系ですし」

マローニはまるで奇術師が操る手品ように、懐からたくさんの眼鏡を取り出した。

「わたしのように素顔のつくりが整っている者だと、こんな小道具は返って邪魔なんですけど。

さあ、どれにします?クリフトさん。

「サングラス」に「ぎんぶちめがね」、「癒しのめがね」にそれから「インテリめがね」なんてのもありますよ」

「ど、どれもかしこさは上がるものの、かっこよさがずいぶんと下がってしまいそうですね。うーん……」

わたしは考え込んだ。

「じゃあ「ぎんぶちめがね」で。これが一番無難そうです」

「ちなみにオプションとして、こんなのもありますが」

マローニはピンク色のヘアバンドをひょいと取り出した。

「どうです?可愛いでしょう。「うさみみバンド」。

欲しければ「うさぎのしっぽ」と「ヘアバンド」で練金することが出来ますよ」

「誰が欲しいんですか、誰が!」

思わず叫ぶと、衛兵が怪訝そうにこちらを見たので、わたしは慌てて声を落とした。

「と、とにかく眼鏡をかけて、ターバン代わりにサッシュを頭に巻いておきます。

これでこんな奇天烈な格好をした男がわたしだとは、よもや誰も思わないでしょう」

それが本当にいいことなのかどうかは、決して解らないが。

「……それにしても」

わたしは用心深くうつむいて、廊下を進みながら言った。

「歌い手である貴方はいいとしても、わたしは楽器がないと、楽師の振りは出来ないのではないですか?」

「いいんです」

マローニはこともなげに言った。

「どのみち今宵の夜会は、始まる直前に中止になりますから」

わたしは目を見開いた。

「な、なぜ?」

「それは、国王陛下の仮病で……おおっと!えへん、えへん!」

マローニはごまかすようにへらへらと笑い、両手を顔の前で振ってみせた。

「えー、そのですね。こんなくだらない夜会、いっそ中止になったらいいなあと思っただけですよ。

貴族ばかりが贅沢の限りを尽くして、堅実に生きる貧しい庶民を全く馬鹿にしている。ねえ、そうは思いませんか。クリフトさん」

「はあ……」

思えばどうして、この時気付かなかったのだろう。

いかに詩人と楽師といえども、なぜ堅固たる王城へこんなにもすんなり入ることが出来たのか。

なぜ誰も、いかにも怪しげなわたしたち二人に視線をやることすらしないのか。

そして最大の奇妙な点は「なぜマローニは、楽師の服を予め用意してわたしのもとへやって来たのか」ということだ。

だが気づかない。

愚かなわたしはなにも気づかない。

(アリーナ様はまもなく婚礼を上げられるのです)

混乱の渦に頭を揺さぶられて、冷静な判断機能が麻痺してしまったのかもしれない。

(これまで長年抱えてきた想いを、全身全霊でぶつけるのです!)

だが今のわたしを動かすのは、本当はそんなことではなかった。

(姫様にこんなに突然、結婚の話が持ち上がるなんて……)

確かに、アリーナ姫はもう御齢19。一国の王女として婚姻を交わすには、むしろかなり遅い方だ。

彼女が自らの結婚にどんな望みを抱こうとも、サントハイムの王位継承者である限り、そこには本人の意思など全く反映されない国と国との複雑な政治事情が蠢くに決まっている。

(このような話を一方的に押しつけられ、今頃アリーナ様は、どれほどお心を痛めていらっしゃるだろうか)

(クリフトの馬鹿っ!)

わたしの前で最後に彼女が流した、透明な悲しみの涙。

(ひどいよ。こんなのひどいよ)

(クリフトの……クリフトの馬鹿……!)

泣き濡れた鳶色の瞳を思い出すだけで、胸が引きちぎれそうに痛む。

このような時に好きだのどうの、お優しい姫様を困らせるだけの言葉を口にするつもりなど端からありはしなかった。

ただ、あのお方を悲しませる出来事なんて、この世界中に万にひとつだってあってはならないのだ。

(けれど、わたしに何が出来る?)

もう近づくなと命が出ているのに、こうして闇雲に城へ潜入して、アリーナ姫のもとへ向かおうとしている。

神に祈るしか出来ない、無力で愚かなわたしが、一体彼女のために何をしてやれる?

アリーナ姫に幸せになって頂くために、いつも笑顔でいて頂くために、


このわたしに何が出来る?


その時、前方からふたつの人影が歩いて来た。

(!!)

姿が視界に映った途端、わたしは仰天して叫び声を上げそうになり、マローニに背中をばんと突かれて慌てて口を押さえた。

(な、何故ここにあの方が……!?)

「クリフトさん、平伏して!」

マローニが小声で耳打ちした。

「膝をついて、額を床につけて下さい!わたしたちは卑しい詩人と楽師です。

王族と同じ高さに頭を並べるなどもってのほか。さあ早く!」

「は、はい」

わたしは動転しながら、急いでその場に平伏した。

早鐘のような心臓の音が、鼓膜を突き破りそうに打ち鳴らされる。

「王女殿下に置かせられましては、本日もご機嫌麗しゅう」

マローニが淀みなく言うと、人影はこちらに気付いた。

「あら、マローニ。わたしお前を探していたのに。今頃現れてももう……」

どこか不安定な足取りで、心ここにあらずと言った様子で近づいて来たのは、アリーナ姫だ。

平伏した姿では表情を窺うことは出来ず、視界に彼女の尖った靴先だけが映る。

だが本当にわたしを驚かせたのは、突然の彼女の出現ではなかった。

「お、詩人か。たまには歌も悪くないな」

涼やかな声が面白そうに言うと、均整のとれた身体が床に膝をついてわたしたちを覗き込む。

「せっかくだ。ここで一曲歌ってもらおうぜ。

ずいぶん間抜けな格好をしてるが、城お抱えの歌手なら腕のほどは確かなんだろうな。

おい、お前。顔を上げろ」

懐かしい冷たい響きの声と、そこらの王族にも引けを取らぬ横柄な物言い。

アリーナ姫の傍らにいたのは、かつて天空の勇者と呼ばれた少年だった。
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