初夜
―――Sideアリーナ
「相変わらずすげえな、お城ってのは。
着いた先から上へ下へのもてなしで、紅茶の飲み過ぎで胸焼けがする」
長い旅の間、一貫して他者を拒む気難しい光を浮かべ続けていた、天空の勇者と呼ばれる少年のうつくしい緑の瞳。
だが今目の前にあるそれは、こちらが戸惑うほど凪いだ落ち着きを帯びている。
立ち居振る舞いも落ちついていて、現在の彼の穏やかな心情が透けて見える。平和を取り戻し、愛する少女と共に静かな日々をことほぐことは、満身創痍だった彼をこれほど癒す効果があったのだ。
共に戦った仲間として、同い年のかけがえのない友人として、運命に翻弄されたこの少年が幸せでいるくらい、嬉しいことなんてない。
ああ、本当に良かった。
「……なんて、思うわけないでしょーが!突然なにしに来たのよ、あんた!
そ、それに花婿候補って一体……!」
ブライに「さあさ、積もる話もあろう。ひとまず姫の部屋へ」と無し崩しに言われ、訳も解らないままふたり、隣室の王女の間へと押し込められる。
まったく躊躇せずに、勇者の少年はすたすたとわたしの部屋に足を踏み入れると、天井や壁を無遠慮に見まわして、ふんと鼻を鳴らした。
「姫御前の部屋も、相変わらず嫌味なくらい絢爛豪華だ。
寄せ木のレリーフも壁のフレスコ画も、蹴破るしか能のないお前には豚に真珠だろ。余計な所に金をかけ過ぎなんじゃないのか、この城」
「あ、そう。随分久しぶりだと思ったら、どちらが本当の強者かついに決着をつけに来たってわけなのね」
わたしはぎりぎりと拳を握りしめた。
「ちょうどいいわ。鉄の爪も出したところだし、この勝負受けて立つわよ!
さあ、すぐに始めましょ!」
「悪い。豚に真珠は言い過ぎた。猫に小判だ」
勇者の少年は面倒くさそうに肩をすくめた。
「いや、猫は可愛すぎるか。犬に論語、牛に経文、石に灸とも言うが」
「例えはどうだっていいわよ!」
わたしは苛々と足を踏み鳴らした。
「そうじゃなくて、お願いだから説明して。なんなの?一体。どういうことなの、これは?
突然お父様が倒れたと聞いてあわてて戻れば、じつはそれは嘘でお父様はぴんぴんしてる。
そうかと思えば急にあんたが現れて、何を言い出すかと思えば、こともあろうにわ、わたしの花婿候補だなんて……!」
「なんだ、俺じゃ不満か」
少年はわたしに近づくと、組んだ腕を解いて片手を差し出した。
すいと伸ばした指先が、わたしの頬のぎりぎり手前で止まる。
「はるばる山奥の村から、お前のためにここまでやって来た。
この俺じゃ、お前の想い人にはなれないって言うのか。アリーナ」
上体が屈んで近づき、妖しいほど美しい瞳がわたしを覗き込む。
傾げたおもては絵のように流麗で、そこいらの初心な娘なら一発で昏倒してしまっただろう。
「なれないに決まってるじゃないの、馬鹿!」
わたしは乱暴に手を跳ねのけて、きっと勇者の少年を睨み返した。
「くだらない冗談言ってないで、早くこの状況を説明してってば!」
「ノリ悪りぃな。つまんねえ」
勇者の少年は腕を組み直して、不満げに鼻先に皺を寄せた。
「久しぶりに村を出て都会に来た。こっちもそれなりに浮かれてるんだ。少しくらい余興に乗ってもらってもいいだろ」
「どうしてわたしが、あんたの浮かれ気分に付き合わなくちゃいけないのよ!」
「それはこっちの台詞だね。俺は、お前の父親に呼ばれたんだぞ」
勇者の少年は人差し指で壁を差した。
向こうに続く隣間は、先ほど騒ぎ立てた国王の寝室だ。
「もう十日ほど前になる。ブライと国王の使者だとかいう男が、突然ふたりで連れだって村へやって来た。
現在アリーナ姫の花婿候補として、年の頃近く、また身分の上でも問題ない男性を探していると。
俺は貴族でも王族でもないが、既成の地位名誉を超越した栄光ある存在だから、サントハイムの王女アリーナに十分釣り合って余りあるだろうってな」
「そ……そんなことを、お父様が?」
「正確には、ブライともうひとりがだ」
「もうひとりって、誰よ」
「さあな。あいつ、なんて名だったか」
勇者の少年はなぜか空惚けた。
「とにかくサントハイムに来て、アリーナと直接会って欲しいと言われた。
永遠の愛を誓い合う花婿として、俺の存在をお前に承諾してもらえと。
だから来た。ここの所ブランカで木彫りがひと通り売れて、暇だったしな」
「ひ、暇だからって……」
世にも美しき偏屈者なるこの天空の勇者の少年が、よりによってわたしの花婿?
いくら世界が平和になったからって、たちの悪い冗談にもほどがある。
久しぶりに見る少年の不敵な瞳は、得体の知れない翡翠色を湛えていて、一体どこまで本気かさっぱり読み取ることが出来なかった。
「そうだわ!」
わたしははっとして叫んだ。
「シンシアさんは?シンシアさんはどうしたの?
花婿どころじゃないでしょ。あなたにはシンシアさんが」
「ああ、あいつか」
勇者の少年の美貌がふっとほころんだ。
どうやら彼の表情筋は、シンシアという名にだけ特別に反応するらしい。
「村に留守番させて来たの?ひとりで」
「まさか」
少年は左胸に手をやり、中からそっと何かを取りだした。
確か旅の間ずっとそこには、彼女の形見だったという煤けた羽根帽子が入れられていたはずだ。
「あいつの存在は、俺自身そのものだ。どこに行こうと離れるわけがない。例え見知らぬ人間達の住む、きらびやかな城だろうとな」
その時、勇者の少年が掌に乗せたものがぴょんと跳躍したので、わたしは思わず悲鳴を上げて後ずさった。
「きゃああああ!」
「なんだお前、両生類は苦手なのか」
「な、な……」
わたしは呆然と言葉を失って、その場に座り込んだ。
少年の瞳と同じみずみずしい若草色をした、小さな塊。
それは軽快な動作で腕を伝って少年の肩に乗ると、ふいごのように喉を揺らしてひと声鳴いた。
「ケロローン」
星のように瞳を瞬かせた、丸くてつるつるした蛙。
「こいつ、モシャスで蛙に化けるのが大の得意なんだ。昔は俺もよく驚かされた」
少年は肩先の小さな姿に「な、シンシア」と視線を投げて、唇の片端を上げた。
緑色の生き物はこくりと頷き、わたしに向かって「ケロロン」と無邪気に鳴いた。