初夜
―――Sideクリフト
あまりに荒唐無稽な言葉を聞くと、逆に心が静まり返る。
それはきっと不意打ちの衝撃から受ける痛手を、最小限にとどめるための予防線なのだろう。
大人と呼ばれるこの年になってもまだそんなことを学べるなんて、変わらぬ日々に新しきを与えて下さる全知全能の神には、全く感謝してもしきれない。
なんて、嘘だ。
全部嘘だ。
「……いったいなにをおっしゃっているのか、よく解りません。マローニさん」
わたしはマローニの手を振りほどくと、注意深く言った。
語気を変えないように気を付けて、微笑みすら浮かべてみせたから、多分まったくの平静を保っているように見えただろう。
「国王陛下が貴方に一体何をご命じになられたのか、存じ上げませんが」
わたしはマローニが握った杯をそっと取り上げると、代わりに部屋の隅の炉の上に並べていた、小瓶のひとつを手渡した。
「さあ、これを飲んで。香草ミルフォイルから抽出した薬液です。胃がすっきりして飲み過ぎによく効きますよ」
「あなたはわたしの言ったことを、ちゃんと聞いていたんですか?クリフトさん」
マローニは瓶を押しのけると、すっかり酔いの醒めた口調で叫んだ。
「酒を飲んでいるからって、訳の解らない出鱈目を吹聴してると思ったら、大間違いですよ!
わたしは陛下から内々の、だが確かな勅命を受けたのです。このひと月の間に、アリーナ姫と貴方の仲を……」
「あなたはひとつ、重大な勘違いをしていらっしゃるようですが」
わたしは穏やかに遮った。
だが今度はわずかに声がうわずり、内心の動揺が図らずも露呈してしまった。
「仲を壊すもなにも、恐れ多くもアリーナ様とわたしの間には、壊すべき特別ななにかなど存在しておりません。
ですからもしも、陛下から真実そのような命が下ったのだとすれば、それはもはや仲がどうのと言うような下世話な問題ではないでしょう。
……つまり、陛下は」
言葉を継ぐのにこんなに力を必要としたのは、後にも先にもこの時だけだった。
「旅を終えた今、身分卑しいわたしがいつまでも王女であるアリーナ様の周囲をうろつくことを、否とされたのではないしょうか。
アリーナ様ももう19歳。貴き王家の次代後継者として、あまたの縁談が持ち上がるご年齢です。
そのような大切な時期にわたしのような存在は、確かに厭わしい邪魔者でしかありませんから」
「あんた、それで物分かりのいい男を気取ってるつもりですか?」
マローニはわたしに食ってかかった。
「本気で言ってるんですか、その台詞?アリーナ様と貴方の間になにも存在していないですって?
その言葉、もう一度アリーナ様の前で堂々と口にすることが出来ますか?
じゃああんたは、このままアリーナ様のことを指をくわえて諦めて、あのわんさか迫って来る有象無象の女達から、都合のよい新しい恋人を選ぶつもりですか?
それがサントハイムの誇る神の子供である、あんたの矜持ってやつなんですか?」
「貴方に何が解るんです」
濃くて強い葡萄酒のむせかえる匂いに、いつしか酔っていたのかもしれない。
それとも耳にした言葉と、昼間の彼女の悲しげな涙に、決定的な答えを見つけてしまったからか。
「そんなふうに焚きつけて、どうしろというつもりなんですか?
貴方の受けた御命は、わたしをあのお方から引き離すことなのでしょう」
わたしは思わず我を忘れて、両手でマローニの肩を掴んだ。
「マローニさん、わたしは聖職者と呼ばれる身です。この命の全てを神に捧げ、全てを俗世と離捨して生きるべき者。
そんな自分がどれほど罪深い想いを抱いているのか、嫌というほど理解している。
この想いをなんとか断ち切ろうと、これまでどれほど愚かしくあがき続けて来たか。
だがそれも上手く行かず、わたしは今もおめおめとここにいて、卑しくも変わらぬ惑心に悩まされ続けている」
冷静を演じていた声音がついに仮面を剥ぎ、こだまのように小刻みに震えた。
「……ですが、誓ったのです。捨て去ることは出来なくても、封じることなら出来ると。
旅の間、お傍にいられたという喜びさえ心にあれば、なにも望まずそれだけを糧にわたしはこれからも生きて行けると。
それなのに、胸に秘めてもう決して掘り起こすまいと決めたことを、あなたはどうしてわざわざ引っ張り出そうとするのです!」
「……」
「こう言えば満足なのですか」
わたしは蒼白になって言った。
「わたしはアリーナ様が好きだ。頭がおかしくなりそうなほど好きだ。
あの方の笑顔が見られるならば、この命など少しも惜しくない。
初めてお会いした子供の頃から、あの方の事を想わなかった日などただの一度もない。
今だって、音楽を教えると言う名目でお会いしているけれど、本当はオカリナであろうと勉強であろうと、わたしにはなんだっていいんだ。
あの方と、少しでも共にいることが出来れば。アリーナ様のお傍にいることが出来れば」
「クリフトさん」
「あの方が誰かのものになるなんて、本当は決して耐えられない。あの方がもしご成婚なされたら、わたしはこのままサントハイムに居続ける自信がない。
けれどそれでは愛すべき祖国より受けた恩義を裏切り、わたし自身の弱さに負けることになってしまう。
だからなんとかしてこの想いを封じようと、アリーナ様と共にオカリナを弾きながら、いつかこの歌の調べのように、全てを越えてあの方の幸せだけを願うことが出来たらと……」
「……クリフトさん」
ぴたりと口をつぐんでしまったわたしに、マローニは仕方なさそうに言った。
「いつも穏やかな貴方も、それだけ感情的になることが出来るんですね」
「陛下のご命とあらば、従います」
わたしは感情を抑えた声で言った。
「オカリナの指南もこれまで。もう二度と、アリーナ様にお目にかかることは致しません」
「そうですか。そうして頂けると助かります」
「ひとつお伺いしたいのですが、マロー二さん。
それでは日毎教会を訪れるあの女性たちも、あなたの仕業だったのですか」
「はい」
マローニは悪びれずに頷いた。
「なにも、あくどい策略を用いたわけではありませんよ。
ただ貴方が長年懸想したアリーナ姫をようやく思い切り、新たな恋人を欲していると触れ紙を配って歌っただけです。ただそれだけのことで、あんなに娘たちが色めき立って集まって来る。
ねえ、お解りになりませんか?クリフトさん。自分が女性にとってどれほど魅力的な存在であるのか。
そしてどれほどこの国の人間が、アリーナ姫と貴方を当たり前に対の組み合わせとして受け止めているのか。
この風評をさっさと払拭するためにも、どうです?あの娘たちの中から、可愛い恋人を見つけてみては」
「結構です」
「そうすれば、アリーナ様を忘れられるかもしれませんよ。新しい恋は失恋の一番の特効薬だ」
「無駄です」
わたしは寂しげに微笑んだ。
「なにをしても無駄なのです。それはわたし自身が、一番よくわかっています」
「ふうん。その口ぶりでは、貴方もこれまでただ神様にすがって生きて来ただけ、というわけじゃなさそうですね」
マローニは思案顔でわたしを見ていたが、やがて目を輝かせてぽんと膝を打った。
「……ねえ、クリフトさん。このまま泣き寝入りなんて、どうにも腹に据えかねますよね」
「え?」
「わたしもまっぴらなんです。こんなふうにお偉方の操り人形となって好き放題使われて生きていくのは」
ふいに手が伸びて、わたしの肩をぐいっと引き寄せる。
「な、なんですか」
「ひと泡吹かせてやりましょうよ、聖サントハイムの貴い子孫がたに」
マローニは片目をつぶって、ひひひと笑った。
「わたし、寝返っちゃいますから。クリフトさん側に」