初夜
―――Sideアリーナ
怒りなんてものは、よほど根が深いものでもない限り、やがては石畳を覆う砂粒のように風に飛ばされて薄れていくものだ。
(あーあ……走り回ったら、なんだか疲れちゃった)
あれだけ息巻いてみせたカーラの手前、更に憤慨した振りをしたものの、マローニを見つけられなかったことはもはやわたしから怒りのあらかたを奪い去ってしまっていた。
(もう、どうでもいいや)
(わたしがクリフトを追い回していようと、なんだろうと)
(クリフトが可愛い恋人を探していようと、な、なんだろうと……)
まるで喜劇役者が顔を紐で引っ張るみたいに、こめかみが左右交互にひくつく。
駄目だ、心の中でまで嘘なんてつけない。
(どうして……?クリフト)
駆ける足が力を失って止まる。
わたしは脳裏で微笑む、背の高い青年の幻に問い掛けた。
(わたしたち、つい昨日まであんなに仲良しだったわよね)
(お前が楽譜を読んで、わたしがオカリナを吹いて、調子はずれな音に顔を見合わせては笑って)
(わたし、気付かないうちにお前に嫌われちゃうようなことをしてしまったの?)
答えはすべて、彼のみぞ知る。
このまま教会にまっしぐらに向かって彼の襟首を掴み、宣言通り羅刹のごとく糾弾すればいい。
とっくに解ってるのに足がそちらへ向かわないのは、ただ、怖いから。
(姫様、このわたしも長の旅を経て早や齢24。そろそろ愛する伴侶となる女性を探そうと思うのです)
(神に仕えるこの身は妻帯すること叶いませぬが、それでも心の支えとなって下さる想うお方が欲しい)
(あ、もちろん貴女のような暴れ馬じゃなくて)
(控え目な方がいいのです。美しくかつ慎ましい、風に煙るスミレのような女性が。
そうに決まっているでしょう?わたしだって男ですから、貞淑なたおやめにはどうしても弱い)
(よろしいですか、アリーナ様)
頭の中でクリフトが妖しくほほえんで、こちらにびしりと指を差す。
(小さな頃から騒々しい貴女のお守りばかりで、このわたしは自分を省みる時間というものを、全く持つことが出来ませんでした)
(だからこれからはふたり、別々の道を歩んで参りましょう。
幸いにして世界は平和を取り戻し、身分違いの貴女とわたしがこれ以上一緒にいる理由はない)
(どうか、サントハイムの王位継承者として相応しい高貴な方と結ばれ、お幸せになって下さい)
(わたしも幸せになりますから。さよなら)
(……さよなら、アリーナ様)
「いやあああ!」
わたしは両手で頭を抱えて叫んだ。
(もしそんなこと言われたら、わたし……)
いにしえより伝わる究極の秘呪文、かのパルプンテの発動だ。
(自分になにが起こるか、解らない!!)
いつの間にかその存在が、わたしを当たり前に立たせてくれるかけがえのない杖となっていたこと。
絶対の自信がある素早さすら、こんな時には何の役にも立たなくて、近くにいるのに遠いクリフトのこととなると、なぜかわたしは気づくのがいつも、遅い。
「アリーナ様っ!!」
その時、カーラが血相を変えてこちらを追いかけて来た。
「なあに、カーラ。ここまでつきあわせてしまってごめんなさい。
わたし、城へ帰るわ。マローニもいないし、一度落ち着いて頭を冷やしたいの」
「そ、それが!!」
カーラはまるでさっきまでのわたしのように、すっかり動転して顔を真っ青にしていた。
「すぐに城へお戻り下さいませ、アリーナ様!」
「だから、今から戻るってば」
「たった今、歩哨が内密に伝えて参りました」
カーラの唇がわなわなと震えた。
「こ、国王陛下がお倒れになられたと!」