初夜
―――Sideクリフト
「まったく……このわたしが、こともあろうに誉れ高き宮廷歌手とは!
たちの悪い冗談だとお思いになりませんか、クリフトさん」
マローニはいかにも詩人らしい女性的な美貌を歪めると、のどを絞る深いため息をついた。
「旅の詩人と楽師だった亡き父母の血を受け継いで、わたしは幼い頃から世界を巡っては東西南北あまたの土地で気の向くまま歌い、なにものにも縛られず生きて来たのです。
それがちょっと、このサントハイムにいつもより長めに滞在していたからと言って、一体どうして国王お抱えの印綬を受けるなんて羽目に。
ああ、もう駄目だ。わたしの人生はこれでおしまいなんだ!
これまで目にした、大陸を彩る国々の絵画のごとき美景。繁栄深きエンドールの誇りし大闘技場。ボンモールの寺院の赤屋根の尖塔。
猥雑ににぎわう砂漠のバザール。眠らない街モンバーバラの喧騒。どんな異境の地にあってさえ、わたしは自由に歌い続けて来たのに。
孤高の勇者のサーガを、初々しい少女のマドリガルを、惜しまれつつ世を去った偉大なる聖人の挽歌を!
そ、それなのに!それなのにもう、わたしは!わたしは……!」
「ち、ちょっと……飲みすぎですよ、マローニさん」
葡萄酒を並々とそそいだ木の杯が、がたんと音を立てて倒れる。
むっと立ちのぼる濃い酒の匂いに辟易しながら、わたしは急いでこぼれた紫色の酒を拭いた。
(参ったな……これ、いつ終わるんだろう)
エルレイ司教が部屋を去るのと入れ替わりに、突然やって来た詩人のマローニ。
こちらの都合などまったくお構いなく入って来た彼は、樫の木造りの椅子に腰かけるや否や、抱えていた大きな葡萄酒三本を、一気に空にしたのだった。
「うぃっく」
テーブルに顔をこすりつけ、何回目かのしゃっくりの後、美しい詩人は据わった目でわたしを見た。
「……あなたは飲まないんですか、クリフトさん」
「いえ、わたしは」
「せっかくのフレノール産赤葡萄酒です。それもなんと、ぜんぶ三十年ものですよ。
いつまでもそんなふうに突っ立ってないで、いっしょに飲みましょうよ」
「申し訳ありませんが、わたしは酒は」
「いいじゃありませんか、ほんの一杯くらい」
「せっかくなのですが、匂いも駄目というくらい酔いの快楽には免疫がないのです」
「ふん!まったくつまらないな。折り目正しく生きるばかりの神の子供様は!」
マローニは突然声を荒げて、どんとテーブルに杯を叩き置いた。
わたしはぎょっとした。
「マ、マローニさん?」
「クリフトさん、前々から思っていましたが、あんたって人は見てくれはいいが中身はほんとうに面白みのない、男として薄っぺらなお方だ。
アリーナ様があなたと結ばれるのにいまいち踏み切れないわけが、よーく解りますよ!」
「な……」
「ほら、試しに嗅いでみてごらんなさい。胃の底に落ちてもなお華やぐこの馥郁たる芳香を。
朴念仁のあなたに理解出来ますか?熟成した名酒だけが持つ、この典雅なかぐわしさが」
絶句するわたしにずいと顔を近づけて、煙草をふかすようにふうっと息を吹きかける。
わたしは蒼白になって後ずさった。
「うっ!さ、酒くさ……!!」
「なーにが臭いですか!太陽の恵みを存分に受けた、フレノール特産の数少ない赤葡萄酒ですよ。
この香りの素晴らしさが解らないなんて、クリフトさん、あんたって人はそれでも大人の男ですか?」
「さ、酒がたしなめないことと、大人であることは何の関係もないでしょう!」
むきになって言い返すと、マローニは憐れむようにわたしを見た。
「やれやれ。これだから神のことしか頭にない無粋な聖職者は」
「な、ぶ、無粋って……」
「お聞きなさい、クリフトさん」
マローニの、普段は弦楽器をつまびく長い指がぴんと立てられる。
「いいですか。この世において、初めて一夜を共にする男女の九割九分が酒の力を借りている。
つまり酒とは、恋愛成就に絶対に必要不可欠な、あのパルプンテをも凌駕する強力な恋の魔法なのですよ!」
「……はあ」
「まったく、そんなこともわからないなんて……だからクリフトさん、あなたは」
そこでふいに、詩人の酔いで真っ赤に染まった顔が崩れた。
「だから……だから、アリーナ様は言うに及ばず、あの国王にまでとうとう愛想を尽かされてしまったんですよ!」
わたしは口を開けてマローニを見た。
「……はい?」
「おかげで、おかげでこのわたしは!」
語尾としゃっくりが重なって、甲高い叫び声が裏返る。
「望んでもいない宮廷歌手なんてものにさせられて、心身ともに自由を絡め取られ、お……おまけに、よりによってこんな国を挙げての馬鹿げた策略の片棒を担がされることに!」
「あ、あのう」
わたしは首をかしげた。
「策略とは?それに、陛下がわたしになにを……」
「この優柔不断馬鹿男!」
これまでじっと抑えていた正体不明の怒りが、ついに噴出したらしい。
マローニは突如、獲物を見つけたアナグマのように両目を見開いてつかみかかって来た。
「この馬鹿!馬鹿!大馬鹿神官!」
「わっ!?痛い!ちょっと……痛いです!マローニさん!
なんなんですか、一体?陛下がどうなさったというんです!」
「だから、壊せと命令が出ているのですよ、わたしに!」
酒の匂いをたっぷりまといつかせたマローニが、続けて放り投げた言葉。
それはどんな強烈な酔いよりも、わたしの脳をがつんと貫いた。
「このひと月のあいだに、完全に壊してしまえというのです!
アリーナ様とクリフトさん、おふたりの仲を!」