初夜



―――Sideクリフト





じん、じん、と、鼓動と同じ速さで顎が痛む。

それと同じくらい、心も。

(クリフトの……クリフトの、馬鹿ぁ!!)

愛らしい眉尻が下がり、鳶色の大きな目がみるみる潤んだ瞬間、どうしてだか解らないけれど、彼女を傷つけた張本人はわたしなのだと気づいた。

(なぜだろう?)

わたしは何をしたんだろう?

そんなことも解らないなんて、そもそもどうしてわたしは、こんなにも鈍感なんだろう?

神の教えなら解る。

守護魔法の聖句も、癒しの薬の組成法も、机にかじりついてがむしゃらに覚えて来たことなら、自慢ではないがなんだって解る。

でもこの世のなによりも愛しく、決して手の届かないあのお方の気持ちだけは、出会って十年以上も経つというのに、脳味噌をひっくり返して答えを探しても、未だにちっとも解らない。

「おーお、いい大人が顎なんぞ怪我しおって。まるでニワトリの喉袋じゃの」

教会のいちばん奥にある自室にこもり、魂が抜けたようにぼんやり椅子に腰かける。

扉が重々しくノックされ、白眉の下の眼にからかう光をたっぷりとたたえて、エルレイ大司教が入って来た。

「ずいぶんひどく腫れておるが、爆弾岩でもぶつけられたか」

「……オカリナです」

「なんとまあ。妙なる音色を響かせる楽器さえ、あの王女の手にかかれば一撃必殺の武器となるのだな」

一部始終を見ていたくせに、わざとらしく驚いた声を上げると、老司教は盛大に笑い出した。

「まったく……顔に物を投げつけるなど、離縁間近の夫婦のやることじゃわい。

クリフト、やはりあの王女はいかんぞ、いかん!

ああいう跳ねっかえりにはな、お前のように気の優しい男ではなく、がつんと言って聞かせることの出来る亭主関白肌の男が似合いなんじゃ。

ほれ、顎を出してみよ。ホイミしてやろう」

「結構です」

わたしは意固地に首を振った。

「火急的治療を必要とする大怪我以外で、魔法を使うことはよくありません。身体本来の治癒力が落ちます。

これは姫様より賜った痛み。ゆえにこの痛みにはきっと、なにがしかの意味があるはず。

……それに」

(酷いよ。こんなの酷いよ!)

大粒の涙をこぼして、わたしの前から遠ざかって行った背中。

「目に見える痛みよりも、見えない痛みのほうが苦しみが深いこともあります。

わたしはどうして姫様を傷つけてしまったのか、今すぐ確かめなければなりません」

「どうするつもりじゃ」

「これから城へ参上し、姫様に理由をお尋ねします。そして誠心誠意お詫びさせて頂きます」

「絶対に許さぬ、お前の顔など二度と見たくないと言われたらどうする」

「ひ……姫様は、いつまでも言われなくお怒りになるような、お心の狭いお方ではありません。

忌憚なくお話して解り合うことが出来れば、きっとお許し頂けると」

「なにを能天気なことを。あの怒りっぷり、そう簡単にうまく行くものか」

まるでうまく行かないほうがいいかのように、エルレイ司教は断言した。

「仮に王女の機嫌が直ったとしても、また明日、女どもの群れが押し寄せて来たらどうするつもりじゃ?

好きだ好きだと迫られて、それを王女に目撃されたら、おぬし、今度はなんと言い訳するつもりなんじゃ。

良いか、クリフト。女というものはの、こと嫉妬がらみになると驚くべき修羅の力を発揮する生きものじゃ。

怒りに我を忘れたあの王女の振り回す鉄の爪が、楽観すぎるお前を、いつか無残な死に至らしめてしまうやもしれぬぞ。

とにかく、絶対に甘く見てはいかんのだ。女の怒りはな」

「司教……なにか、女性を怒らせて問題でも起こしたことがおありなのですか」

わたしはため息をついた。

「いくら姫様と言えど、たかだかご機嫌を損ねたくらいで、鉄の爪なんて持ちだすわけがないではありませんか」

そう言って笑ったまさに同じ刻、怒りに燃えた彼女が鉄の爪を装備していたことなど露知らず、

「とにかく、今すぐ城へ上がります」

わたしは立ち上がり、はっと目を見開いた。

司教の後ろに誰かが立っている。

ゴブラン織りの派手な刺繍の施されたローブに、胸から垂れたたくさんの装身具。

長い髪をエナメルを塗った編み紐でひとつに束ね、額には王家お抱えの印入りの輪を嵌めている。

「突然申し訳ありません、クリフトさん。

折り入ってお話があります」

「マローニさん!」

わたしは唖然として、サントハイム宮廷が世界に誇る歌い手の、青ざめた細い面を見つめた。
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