初夜



―――Sideアリーナ





みっともないほど泣きじゃくりながら走り去ったその時のことは、自分でももう思い出したくもない。

広間を荒々しく抜け、大理石の階段を三段飛ばしに越えて最上階にたどり着き、驚いてこちらを見る衛兵を完全に無視すると乱暴に扉を開ける。

両手に握り締めたのは、涙を拭きすぎてぐしゃぐしゃによじれてしまった、コバルトブルーの三角帽子。

力任せに丸めて思い切りベッドに投げ付けてやった。

(なによ、あのびっくりして言葉もないって目は……!

わたしは何も存じ上げませんて顔して、頭に来るったらないわ!)

わたしはしゃくり上げながら、マホガニーの箪笥の引き出しを開けた。

四角い箱の中に広がる、きらきらした刺繍付きのハンカチーフや、瀟洒なレースのストールの海。

目もくれずに拳で押しのけると、一番奥から油紙に包まれた、猫一匹分ほどの大きさの荷を引っ張り出す。

衣服が汚れないように素早く腕をまくって、わたしは包みをテーブルに乗せ、そっと中を開いた。

(ずいぶん久し振りだわ。これを装備するのも)

いつなんときでもすぐに使えるように、武器庫ではなく自分の部屋にこっそり隠しておいたのだけれど、まさか魔物の消えた平和な世界にあって再びこの武器を身に着ける時が来ようとは、いかにおてんば姫として名高いわたしも露ほども想像していなかった。

(でも仕方ないわ。殺ると言ったら殺るのよ!)

黄ばんだ油紙の中から、むっと鼻をつく錆びた匂いと共に現れたのは、鉄の爪。

長く苦しい旅のあいだ常にわたしの傍らにあり、晴れの日も雨の日も共に戦ってくれた、至上の恋人と言ってもいい宝物だ。

わたしは愛すべき武器を片手で掴むと、掛け釦を外して手袋を取った。

もちろんこのままだって装着出来るのだけれど、打撃の手応えを直接肌で感じるためにはやはり素手、それに並ぶものなんてない。

このところめっきり実戦から離れていたせいか、少しだけ細くなった右腕を振り上げ、奇妙な緊張に包まれながら鉄製の爪が嵌め込まれたベルトを手に巻き付けた、その時だった。

「アリーナ様っ!!」

扉がばんと開かれて、血相を変えたカーラが飛び込んで来る。

「こ、高貴なる王女ともあろうお方が、公衆の面前であのように大声で叫び、挙げ句の果てに聖職者であられるクリフト様に、物をぶつけるなどという暴挙……ひええっ!?」

あるじの手にぶら下がった鉄の爪を見て、忠実なカーラは窓硝子まで突破ってしまいそうな悲鳴をあげた。

「うるさいわよ、カーラ。大声をあげてるのはお前の方じゃないの」

「そ、そのような物騒な代物で、一体なにをなされるおつもりなのです?!

まさか先程の娘たちを残らず捕まえて、ひとりひとり順番に血祭りに……」

「違うわよ。あの女の子達はなんにも悪くないわ。

その目はふし穴、あんなつまらない男に揃いも揃って骨抜きにされて、馬鹿の一つ覚えみたいにきゃあきゃあ騒ぎ立てているという罪はあるにしてもね!」

わたしはぎらりと目を光らせた。

「さっきはとりあえず追い払ってやったものの、あの子たちをどうこうしようなんてつもりは少しもないの。

わたしの標的はふたり。

どうしようもなく下らない、このサントハイムの品格を貶めているクリフトとマローニ、無知で愚かなふたりの男どもよ!

ごめんなさい、カーラ。これまで色々と困らせて来たけど、それでもわたしは王女らしくあれというお前の教えを守って、出来る限り品行方正に生きて来たつもりだわ。

でもそれももう無理。理性の砦は崩れたの。

わたしは19歳にしてついに、この手で人をあやめることになってしまったのよ……!」

「か、神よ!偉大なる聖サントハイムよ、どうか貴方様の血を引く愛し子を、怒れる狂気の渦より救い出したまえ!」

カーラは真っ青になりながら、わたしの両肩をひしと抱いて揺さぶった。

「なにを聞いても傷つかないと、お心が頑丈に出来ていると、ご自分でおっしゃったではありませんか!」

「心は傷ついてなんかないわ」

ともすればまた涙が溢れ出しそうになるのを必死でこらえながら、わたしは言った。

「でもねカーラ。いくらおてんば姫よ、暴れ馬よと謗られるわたしだって、卑しくも王位継承権者、国王アル・アリアス二十四世と王妃フィオリーナの娘、聖祖サントハイムのまごうことなき末裔なのよ。

それを吟遊詩人風情に、寄りによって酒場なんかで訳の解らない出任せを吹聴されて、心は傷ついてないけれど、王女としての誇りはずたずたに傷ついたわ!

だっ、大体、誰がクリフトを追い回したって言うのよ!

わたしはただオカリナを習っているだけで、クリフトだっていつも楽しそうにしていたし、

い、嫌がってるなんて、追い回してるなんて、わ、わたし……!」

「……結局、そこなのですわね」

ついにぽろぽろとこぼれ落ちた涙を見つめて、カーラは深いため息をついた。

「アリーナ様、泣かないで」

「泣いてなんかないわ!」

わたしは叫んだ。

「これは涙なんかじゃない。汗よ。誓いの汗。

今からわたしは王女の誇りを取り戻すため、全てを捨てて復讐に生きる羅刹となるんだから!」

「まったく……」

カーラはもう一度ため息をついた。

「マローニの件はともかく、クリフト様が貴女様のことをお嫌いになどなるわけがないでしょう。

それは太陽が東から昇らないようになり、月が夜空に輝かないようになるのと同じくらい有り得ないことです。

こんなに長くご一緒におられるのに、まだおわかりにならないのですか」

顎まで伝い落ちる涙を拭こうとして指を持ち上げ、自分の手に鋭い鉄の爪がくっついていることを思い出す。

わたしは力なく腕を下ろし、濡れた目でカーラを見返した。

「……解るって、なにが」

「クリフト様はまるで子ウサギのようにお小さい頃から、ずうっとアリーナ様のことだけを想ってらっしゃるということです。

わたくし達下々が拝見しても一目で解るそのご執心ぶり、当の姫様がいつまでたっても知らぬ存ぜぬでは、あまりにクリフト様がご不憫というもの。

いいですか、アリーナ様。

クリフト様は貴女様がお好きなのです。

そしてサランの詩人マローニとて、かの歌姫アンナにも次ぐ稀代の名手として、今や世界中に名を轟かせるサントハイムの誇るべき歌い手。

言われなき中傷誹謗をまき散らすような人間ではございません」

カーラの目がすっと細められた。

「とにかくサランに参りましょう。

これにはきっとなにか、裏があるのです」
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