あの日出会ったあの勇者



王城へ来たことはない。

中に入るどころか、石造りの城壁の間際に近付いたこととて一度もない。

無爵の平民の子供なのだから、当然と言えば当然だが、王家直轄の城下街に住んでいながら、その王家の人間が住む城についてなにひとつ知らない自分を、今さらながらライはまざまざと感じた。

この小高い宮殿の中で、この国のすべてを統治する王が暮らしている。

母さんが汗水たらして工場で働き、兄ちゃんがキャンバスに向かってものになるかどうかもわからない絵を懸命に描き、俺が洗濯を忘れられた運動着を裏返してもう一度着るその間にも、

豪華な王冠を頭に乗せた王様は更紗と繻子で出来たソファに自堕落に寝そべり、しぼりたての香ばしい葡萄の酒を、昼間から優雅に飲んでいたりするんだ。

ただそれだけの、いや、それこそが恐ろしい罪深さだと感じられ、ライはここを憎らしい場所だ、と思った。

ここは嫌いだ、と。

するとなぜかその瞬間、きしんだ硬い木の椅子にもたれてうつらうつらと舟をこぐ母親の疲れた横顔が、脳裏におかしいほどあざやかに浮かび上がった。

(母さんは嫌いだ。俺の気持ちなんてなんにも解ってくれない、馬鹿野郎だ)

(でも、俺の母さんは少なくとも昼間から酒を飲まないし、自分だけ更紗や繻子のソファで寝たりはしない)

(俺たちはこんなでかい城に住めやしないけど、今の暮らしを、ささやかだけどちゃんとごはんを食べられる暮らしを、母さんが働いて守ってくれている)

(俺に言った。いい子になってちょうだい。母さんを喜ばせてちょうだい、って)

(俺、母さんを喜ばせたことあったのかな)

(もっとそばにいてほしい。俺を見てほしい、ああしてほしい、こうしてほしいって望むことは山のようにあったけれど)

(そばについていてあげたい。疲れてる母さんに、ああしてあげたい。こうしてあげたいって思ったこと、俺はあったのかな……?)

「何者!」

ブランカ城の門前に辿り着くと、門の両脇を固めていた鎧姿の警備兵が、鋭い声で誰何(すいか)した。

よく研がれた槍先を向けられ、ライは「ひっ」と呻いて身をすくませた。

だが緑の目をした若者は全く動じる様子を見せず、突きつけられた槍に目を向けることもなく、「城内の商工業ギルドに野暮用がある。悪いが、開門を頼みたい」と無感動に言った。

「ギルドに用向きなれば、入城手形を提示せよ」

「持ってない」

「これはおかしなことを。諸外国を含め全ての商工業ギルドの各所属員は、皆必ず手形を所持しているはずだ」

「俺はギルドの人間じゃない」

「しからば、何用」

「こいつが仕事を探している。だからギルドの本部に行って詳しい話を聞きたい。な、ライアン」

唐突に自分の方を顎でしゃくられ、ライは全身が凍る思いだった。

(どうしてここで、俺に振るんだよ!)

だが緑の目の若者は、我関せずと言った様子で黙っている。どうやらそれ以上の助け船を出す気はないらしい。なんて奴だ。

ライは青ざめながら、ぎくしゃくと頭を下げた。

「え、えーと……、その、そういうことです。よろしくお願いします」

「なんと、酔狂な冗談だ。仕事を探すと言ってもお前はまだ小童ではないか」

警備兵のひとりがせせら笑った。

「下らぬ茶番は余所でやるがいい、小僧。ここがもしも軍規厳しいかのガーデンブルグでもあれば、お前のそっ首とうに野に落ちているところだぞ」

「冗談じゃありません」

ライはかちんと来て食ってかかった。

「どうしてなにも聞かないうちから、冗談だって決めつけるんですか。そりゃ俺は子供だけど、でも本気で仕事を探しています。

ひとり立ちしたいと思ってるんです。働きたいんです!」

「おい貴様、大概にせぬと……!」

「まあ待て」

傍らにいたもうひとりの警備兵が一歩前に歩み出ると鷹揚に制し、軍人らしい訓練された隙のない目で、ライを正面から凝視した。

「小僧殿、仕事がしたいと言ったな」

「はい」

「だが見たところ、お前はまだ子供のようだ。初等学校に通う年頃だろう。勉強はどうする」

「や、辞めます。学校へは行くのはもうやめて、これからは働いて自分の力で暮らして行く」

「辞めるか。……そうか」

警備兵は肩をすくめ、鼻先に皺を寄せて笑った。存外温かい笑顔だった。

「では、もうひとつ聞かせてもらうとしよう。働きたい働きたいとたやすく言うが、このブランカ城のみにあらず、世の中にはじつにさまざまな類の職業がある。

お前はその若さでそれほどまでに急き、一体なんの仕事に就きたいと望んでいるのだ?」

「それは……」

ライは口ごもった。

なんの仕事に就きたいか?

そんなこと、考えてもいなかった。

仕事は仕事だ。そこらじゅうにいくらでもある。やらせてもらえるならなんだっていい。なにか仕事につけば、お金が貰える。それで暮らして行ける。……はずだ。

言葉に詰まってうつむいていると、警備兵はライから視線を離し、くるりと身体の向きを変えた。

「此方(こなた)様。不躾に失礼かとは存じますが、此方様はもしや」

緑の目をした若者は、突然話しかけられて驚いたように顔を上げた。

「よも間違いでありましたら、平にお許し下さいませ。

貴方様はもしや、かのアッテムト鉱山においての地獄の帝王討伐、また地底世界の魔族の大乱のみぎりの、天空の……」

「ああ」

「やはりそうですか」

若者のそっけないいらえも気にせず、警備兵は嬉しさを隠せぬように頬を紅潮させた。

「まさか今現在、このブランカへご入国なさっておられたとは。

お噂はかねがね伺っておりましたが、ご本人にお目にかかるのはこれが初めてです。貴きご尊顔を拝謁の栄を賜り、無上の喜び」

緑の目の若者はすっと瞳を細めた。

「なぜ、見ただけで俺だとわかった。今日は天空の兜も剣も持っちゃいないが」

「恐れながら、貴方様を筆頭にこの世を救った導かれし英雄たちのサーガは、いまや世界中のいたるところで喉も枯れよと歌われております。

未曾有の冒険譚で語られる貴方のご雄姿は、左耳にブルーサファイアのピアス、新緑から生まれいでし宝珠の如き翡翠の髪と瞳、女神も青ざめる美丈夫、と。

身の程知らずなご忠告をさせて頂けるならば、貴方様の華やかなご容姿はあまりにも目立ちすぎます。わたしでなくともいずれ皆気づくでしょう」

「いつもはマントを被って、決して人目につかないようにしている」

「それが賢明かと。有象無象のいらぬ興味を引くのは、この世を救ったのち雲に隠れるように姿を消してしまった貴方様のご本意ではないと心得ます。

ところで、今日はこのブランカ王城へいかようのお出ましでしょうか。勇者さ……」

言いかけると、緑の目をした若者がすかさず人差し指を唇にあてた。警備兵ははっと口をつぐんだ。

若者の傍らで、うつむいて困ったようにため息をついているライをちらりと見ると、「……なるほど。そういうことなら、了解いたしました」としたり顔で深く頷いた。
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