ドラクエ字書きさんに100のお題
62・過去に戻れたらいいのに
太陽がいつもより空に長居するようになったら、まもなく夏がやって来る。
ロザリーヒルは閉ざされた地だ。くぼんだ大地に森に囲まれた塔が立ち、そこには暑さは一切訪れない。秋冬でも葉を落とさない木々の緑や、その上に降り積もる雪の白さばかりに惹きつけられて、これまで夏を知らぬまま生きて来た。
知らなかったことを知ることは、今日まで歩んだ生の軌跡を見直す機会だ。毎日、新しいことを知りたい。もっともっと未知のものに触れてみたい。
「ピサロ様、わたし、今度の夏はお祭りに行ってみたいですわ」
男の人は要求を素直に口にしない。だから甘えや我儘を先んじて訴えるのは、女の特権でもあるし、義務でもある。
「出店の串焼きや砂糖菓子や果実酒をたくさん買って、貴方とふたりで道端に行儀悪く腰かけて、花火を見ながらそれを食べるのです」
ロザリーにそう言われ、ピサロは否とも応とも答えず、かすかに眉をひそめながら「祭り」とひとこと呟いた。
「サントハイムの城下では毎年盛大な夏祭りが催されるそうです。今年こそいらっしゃいませんか、と、クリフトさんとアリーナさんからお手紙を戴きました」
「あの神官は王女と婚礼を上げて、民間人の分際で王に成り上がったばかりであろう。祭りを楽しむ暇があるとはずいぶん気楽なものだ」
「まあ、そのようなお戯れをおっしゃって。成り上がりの王がどれほどご苦労なさるか、貴方様がいちばんよくお解りですのに」
痛いところを突かれ、ピサロは嫌な顔をした。
「……ロザリー。お前はこの頃、少し口が悪くなったようだな」
「そうですか?」
ロザリーは意外なことを言われたように目を丸くし、すぐに笑み崩れた。
「だったらわたくし、こっちがきっと本当の自分の姿なのですわ。
これからはなんでも思ったことを言いたいし、やりたいことを我慢するのもいやです。嬉しい時は飛び上がって喜びますし、腹が立てばきちんと文句を言いますわ。
ピサロ様、たとえ貴方にでも」
また痛いところを突かれ、ピサロは黙ってしまった。彼女を籠の中の鳥のように狭苦しい塔へ閉じ込めて、思ったことを言わせなかったのも、やりたいことをやらせなかったのもかつての自分だ。
心優しいロザリーのことゆえ、無論責めているわけではあるまいが、彼女は無意識のうちにあの頃のなにも出来なかった時間を取り戻したいと考えているのだろう。
このところとみに、あれをしてみたい、あそこに行きたいと、希望を積極的に口にする。その中にはピサロが言葉に詰まるような要求もいくつかあったが、気恥ずかしさを堪えて出来る限り叶えてやって来たつもりだ。
望みが叶った時のロザリーの笑顔は満開の花のようで、心のどこかでなぜわたしがこのようなことを……と思っていたピサロも、思わず釣られてほほえみがこぼれる。
そうだ。彼女は元々こういう娘だった。
おとなしやかに見えて気が強く、従順に見えて己れの信念があり、儚げに見えて思ったことをちゃんと行動に移す。
だからエルフの身でありながら魔族の王である自分を愛し、その身を捧げ、ついには邪神と化した自分を救いに勇者まで連れて地底の城へとやって来たのだ。
「わかった。祭りに行けばよいのだな」
ピサロは静かに言った。
「だが道端で物を食するのはあまり好まぬゆえ、あの成り上がりの神官王に、街のいずこかの東屋を借りれぬか頼んでみることとしよう。
花火の大音声や人の群れは、今のお前の身体にもよくあるまい。無理をせず不調を感じたらすぐわたしに言うのだぞ」
ロザリーは戸惑ったようにピサロを見つめたが、黙ってこくりと頷くと、不意に両手で顔を覆って肩を震わせた。
「どうしたのだ、ロザリー」
「……ああ、過去に戻れたらいいのに」
指の間から、ぱらぱらとルビーの涙がこぼれ落ちる。
「取るに足らないわたしにまさか、こんなにも幸せな日々が訪れるなんて。
こうしてピサロ様のおそばにいられて、望みのすべてが叶えられて。幸福過ぎて、怖いほどなのです。
あの頃の泣いてばかりだった弱虫のわたしに、教えてあげたい。ねえロザリー、そんなに悲しむことはないわ。あともう少しだけ待てばあなた、この世で一番の幸せ者になるのよ。
世界は光踊る彩りに満ちていて、毎日が透き通るようなまぶしい輝きにあふれている。そんな日をあなた、迎えることが出来るのよ。ピサロ様と共に……、って」
「わたしとお前だけではない」
ピサロはロザリーを抱きしめた。
「ここに、もうひとりいる」
ふくよかな下腹部にそっと手のひらを押し当てると、眉をひそめる。
「また、大きくなったのではないか」
「ええ」
ロザリーは泣きながらほほえんだ。
「これからもっと、うんと大きくなりますわ。あと数月、どんどん大きくなるのです。
わたしとあなた、ふたりで生み出した命はここですくすくと成長し、もうこれで大丈夫というところでようやくこの世界へ舞い降りて来るのです」
ピサロは目を閉じ、手のひらから伝わるロザリーの体温にじっと意識をそばだてた。
やわらかなぬくもりが時々盛り上がるように動くような気がするのは、母親の胎内で赤子が存在を訴えているのだろうか。
命の営みとは、あまりに奇妙で、不思議すぎて恐ろしいほどだ。十月十日、母の中ではぐくまれてこの世界に生まれいづる命。自分はこれまで、路傍の草を踏みしだくようにたやすく奪って来た。その罪は王の名を捨てた今も、決して消えるものではない。
ロザリーだけではない。これから自分も幾度となく、過去に戻れたらいいのにと思うのだろう。
幸福であればあるほどかつての己れの罪深さを悔い、取り返しのつかない重い宿業に苦しむ。いとしごに胸を張れる父親になることは出来ぬ。だがそれでも、傍らにいる精霊の娘のぬくもりとその懐で育つ小さな命を思えば、勝手と知りつつ生きていたいと願う。
赤子を胸に抱く自分の姿など想像もつかなかったが、そこにはたしかな希望の灯があった。
「ところで、ピサロ様。お祭りでは皆、浴衣というものを着るそうなのです。
なんでも古代東方より伝わる夏用の染め物の衣装で、今サントハイムでとても流行っているとか」
さっきまで泣いていたロザリーがもう瞳を輝かせ、ねえピサロ様、わたくしと一緒に着て下さいますか?と小首をかしげる。
幸福の味わい方を知った妻は、今と未来にのみ希望を見いだしている。やがて凛々しく、逞しい母となるのだろう。守るべきものを見いだした時、この娘がどんなに強いかをよく知っている。
ピサロはふっと微笑し、「わかった。祭りに花火に、浴衣だな。好きにするがいい」と言うと、まもなく出会うであろう新しい命の鼓動からそっとてのひらを離した。
―FIN―