ドラクエ字書きさんに100のお題



61・自覚症状


ある日突然、食欲がなくなった。

もともと痩せ形で、食べることに貪欲な気質ではないが、それでも自分はまだ9歳の子供だ。動けば当たり前に腹は減るし、もっと幼い頃、修道院に送られる前はその日の食事にもこと欠く貧困を経験した。食べられる時には出来るだけ多く食べたいと思う。

だが、唐突にそれが出来なくなった。ある日を境に、なぜか全くおなかが空かないのだ。

何も口にしていないのに、胸の下あたりが食べすぎた時のように苦しい。まるで間違って飲み込んだ石ころが喉の奥で道をふさいでいるみたいだ。

それに、原因もないのにやたらと動悸が激しくなった。いつも心臓がどくどくと脈打っている。生きているのだから脈打っているのは当然だが、それにしたって起伏が激しすぎる。

どきん、どきん、どきん。

心臓の音とは意識すると、これほどうるさく感じられるのだと知った。

あまりにうるさいものだから、聖書の文字さえいつしか頭に入らなくなって、気づくと同じ行を何度も読んでいる。ついには年上の修道士に「おいクリフト。お前、服を後ろ前逆に着ているぞ。最近どうしちゃったんだ?」とうろんそうに咎められ、ようやくわかった。

原因がないわけではない。

原因はちゃんとあった。

「こんにちは!」

こん、こんとノックの音がし、教会の扉が重々しく開かれる。とたんに幼いクリフトは飛び上がった。

ああ、あのほがらかな声がまた天井まで響く。これだ。これが原因なのだ。

心臓の鼓動はさらに速度を増し、どきんどきんどころか、もはやどかどかと暴れ狂い、いつ爆発したっておかしくない。

「今日もー、よろしくおねがいしまぁす」

声の主がちょこちょことこちらへ歩いて来て、傍らのブライ卿に促されて舌ったらずに挨拶するとぺこりと頭を下げる。

顔を真っ赤にしたクリフトは、その場に飛びすさるように土下座した。

「こっ、こっ、こちらこそよ、よよよろしくお願い申し上げます!!王女殿下様」

「馬鹿もの、何が「殿下様」じゃ。それになにをやっとるんじゃ、お前は。

いくら主家の姫君とはいえ、なにも土下座までせんでもよいわ」

ブライが呆れたように、手にしたヒノキの杖で平伏するクリフトの後ろ頭を小突いた。

「あ、痛っ」

「先だって、姫も無事に洗礼を済ませた。今後は幾日おきかにこの教会で神学を学ぶことになると言ったではないか。

学びの際に堅苦しい敬称は要らぬと国王陛下も仰せであった。今後、アリーナ姫のことはただ姫様とだけお呼びすればよい。

よいか、クリフト」

「はい」

「お前はこの教会の修道士見習いの中で、最も姫に歳が近い。さりとて、子供ながらおぬしの抜きん出た頭の良さはわしも買っておる。

これからは一日数時間でよいゆえ、姫に勉学を教え、神の御前での慎み深い立ち居振る舞いを説き、そして時には遊び相手になってやってくれぬかの」

「ぼ、ぼくがですか?!」

ブライはじろりとクリフトを見た。

「なんじゃ、その顔は。なにか不満でもあるのか」

「いっ、いえ、そうではなく……」

クリフトは目を見開き、破裂寸前の左胸をわし掴んだ。

(ぼくが姫様の遊び相手だなんて、どう考えても無理だ)

だってこうしてこの場にあの方がいるのを見ているだけで、呼吸すらままならぬほど苦しくなる。

これが原因なのだ。あの人形のように愛らしい、小さな姫君がここにやって来ること。

生まれて初めての洗礼を受けに、まだ4歳の彼女がここに現れてからというもの、自分は食欲を失い、なにをするにもうわの空になってしまったのだ。

「やんごとなき方々の例に洩れず、姫にも心許せる友人と言うものがおらぬでな。母君をお亡くしになられて寂しい思いもしておられる。

おぬしを信頼しているゆえにこの役目を任せるのだ。頼んだぞ。クリフト」

そう言うと、ブライはクリフトの返事を待たずに祭壇上にいるエルレイ司教のもとへ行ってしまった。

「ねえ」

「うわあっ?!」

放心していたクリフトは、背中をつつかれて叫び声を上げた。

「な、なんでしょうか」

「あれ、なあに」

どぎまぎしながら振り返ると、年の割に背の高いクリフトより頭ひとつ半ほど小さい、鳶色の巻き毛とはちみつ色の輝く瞳をした女の子がすぐ真後ろに立っている。

長いまつ毛をしばたたかせ、頬をばら色に上気させながら、巨大な絵が描かれた壁を指差していた。

(かわいい)

少年クリフトの胸が、これまで知らなかった痛みにきりきりと締めつけられた。

(ああ、なんだろう。息が苦しくてたまらない。甘くて飲み込みづらい何かが、ずっと喉につっかえている。

昔、誕生日にお母さんが特別に作ってくれたクリーム入りのケーキを、欲張ってほおばりすぎた時みたいだ)

「あれはサントハイム王朝開闢(かいびゃく)の祖、水晶の泉から生まれたという聖祖サントハイムの降臨を描いたフレスコ画です」

「カイビャクノソって?」

「このサントハイムを建国なさったお方だということです。背中に蝶の羽根が生えた伝説の聖人サントハイムは、現在のサントハイム聖王家の始祖であり、アリーナ様の遠いご先祖様であらせられます」

「フレスコガって?」

「生乾きの漆喰の上に顔料を塗って描く絵のことです。一般に、サントハイムに現存する多くの宗教画はこの技法で描かれています」

「シックイって?」

「壁の上塗りなどに使われる消石灰です。白くて光沢があり、美しいので、わが国ではもっぱら壁画の下地建材として使われます」

「どうして教会の壁に絵を描くの?」

「教会に来られる方々の多くは心の平安を求めています。この壁画はサントハイム建国の偉大な歴史の一幕であり、我が国は姫様を一員となさる聖王家によって強く護られているという、すべての民が享受すべき平安のあかしなのです」

アリーナが目を見開き、にわかにこちらを穴が開くほど見つめて来たので、クリフトはたじろいだ。

「な、……なにか」

「お前、小さいくせになんでも知っているのね。すごいわ」

「小さいくせにって」

反射的にクリフトはむっとした。

「ぼくより、姫様のほうがずっとお小さいじゃありませんか」

「お城にはお前みたいに小さい人間はひとりもいないわ。わたし以外は皆おとなばかりだもの」

「それは、姫様が貴族たちが取り仕切る王宮の華やかな表の部分しかご存知ないからでしょう」

だんだん腹だたしくなってきて、クリフトは冷たく言った。

「水くみや床磨きで朝から晩までこき使われる下働きの子供なんて、お城の地下には山ほどいますよ。

大人に囲まれて、常日頃から甘やかされてお育ちなのでしょうけれど、言っておきますがここではそうはいきません。ぼくは、ブライ様から貴女様のことをお願いされたのです。

たとえ王女様であろうとも厳しく……んっ?」

びり、びりり、という音が聞こえて来て、クリフトは仰天した。

「わーっ、なにをやっているんですか!」

「きれいな御先祖様の絵の前で、紙ひこうきを飛ばすの」

聖書の頁をためらいなく破り、アリーナはどこで覚えたのかものすごい速さで紙飛行機を折ると、身軽に祈祷台によじ登った。

「そんなところに登っちゃいけませ……」

言いかけて、クリフトは思わず言葉を失った。

小さなアリーナ姫の手からさっと放たれた聖書の紙飛行機が、 まるで時間を区切るかのように唐突に空中をまっすぐ飛んだのだ。

神のささやきを乗せた純白の三角形。それはこの国を築いたという聖人の青紫色の羽根の前を滑り、聖人の振り上げた手の上空に佇む朝日のたもとを横切り、最後にクリフトの額にこつん、とぶつかってくるくる回りながら床に落ちた。

姫様が、聖なる言葉を空に解き放った。まるでこの先の自分の全てを変える、大きななにかを意識の底に直接投げ込まれたかのようで、クリフトは唖然として額を押さえた。

「お前、さっき言ったわよね」

アリーナ姫は到底4歳とは思えぬ、凜とした光を瞳に浮かべてクリフトを見降ろした。

「この国は王家によって護られていて、それが民が受け取るべき平安なのだって。

わたし、じつは武術家になりたいの。でもおとうさまやブライがだめだって反対するから、無理なのかなってあきらめかけてた。

でも、この国を守るのが王家の役目なら、わたしやっぱり武術を学びたい。誰よりも強くなって、この国のすべてを守れるようになりたいわ。

もう決めた。わたし、絶対に武術を極める。ねえお前、なんて言ったかしら。名前 」

「わ、わたしですか?クリフトです」

「クリフト、ありがとう。

お前がわたしの進む道を教えてくれた」

胸に風穴を開けられて、クリフトは息も出来ずにアリーナを見つめた。

が、実際はこらえきれずにぷっと吹き出していた。滔々と述べたてたアリーナの言葉が、じつは全部ひどい舌ったらずで「武術家」が「ぶーつか」、「わたし」は「わたち」「クリフト」が「くいふと」になっていたからだ。

「なに笑ってるのよう!」

怒りに頬をふくらませたアリーナが、ムササビのように祈祷台の上から飛びかかって来る。

クリフトはもんどりうって床に倒れ込み、飛び乗って来たアリーナにぐいぐいと首を絞められて、笑いながら「申しわけありません、もう笑いません」と謝った。

胸につかえていた甘い塊が、一斉に喉の奥に転がり落ちてゆく。それは自分の心の真相を知る合図でもあった。

食欲を失くし、鼓動が荒れ狂う初恋の自覚症状。

ぼくはこの太陽の子供のようなはつらつとしたお姫様を、好きになってしまったのだ。

「クリフト、重い?」

自分から乗っかっておいて、どく気もないくせに小さな姫はふと不安そうな顔を浮かべる。クリフトは首を振った。うわの空の暮らしは今日でおしまいだ。進むべき道を見つけたのは自分も同じだった。

ひと目見たとたん惚れ込んだのは、祈祷台によじ登り、首を絞めて来る稀代のおてんば姫。このまぶしさに負けない輝きを、ぼくも早く身につけなければ。我を失ってぼんやりしている暇などない。

「平気です。ぼく、強くなりますから」

少年クリフトは唇を引き締め、きっぱりと言った。真上からそれを見降ろしながら、アリーナはぱちくり、とまばたきした。



―FIN―


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