ドラクエ字書きさんに100のお題
59・わたしに手を触れるな
その男の背中はまるで刃物で破線を刻んだかのように傷だらけであった。
だがそれは全て淡い琥珀色に変色し、周囲の肌との境目は薄くなり、傷がつけられてから既にかなり時が経ったことを示している。
男が脱いだ衣を傍らで受け取った腹心の配下は、思わず吐息を洩らした。
「御玉体にかくもあまたの傷跡が。一体、ご即位までどれほどの艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えて来られましたか」
「幼き頃の名残だ」
男は興なげに答えた。
「未だ完全には消えぬ。背中の傷は戦士の恥と言うが、ならばわたしは前代未聞の恥知らずな王なのだろう。
これを見た者はこの世にロザリーと、貴様しかおらぬ。影の騎士よ」
「どうぞ、わたしのことはピサロナイトとお呼び下さいませ」
「臣を呼ぶにいちいち己れの名を口にせねばならぬとは、むず痒いものだな」
ピサロナイトと名乗った、緑金色の甲冑を身につけた騎士がうっそりと頭を下げる。
男は額に巻いていた緋色の絹布を外し、さらに流麗な仕草で身につけていた衣を全て払い落とした。
あらわになった裸身の、一片の欠落もない完璧な美しさ。
男はまるで夜の女神に愛された麗しき軍神のようだった。ひとすじひとすじが鈍く輝く月光色の長い髪が、傷痕だらけの背中に滝のようになだれ落ちている。
緑金色の甲冑の騎士がうやうやしく床に膝まづいて扉を開けると、銀髪の男は中へと足を踏み入れた。そこは天井にも壁にも精緻な彫刻が彫り込まれた浴場だった。
豪奢に輝く髪を無造作に垂らしたまま、大理石の浴槽に体を沈める。水しぶきが跳ね、あたり一面にもうもうと白い湯気が巻き上がった。
「お熱くはありませんか」
「よい」
「金湯に、御香油をお入れになりますか。ピサロ様」
「要らぬ」
「されど、魔族の王であらせられるお方の御玉体は、沐浴にてお清めの度に御香油をおまといになられるのが習わしです」
「香油」
銀髪の王たる男は鼻でせせら笑った。
「愚かな人間どももさぞ驚くであろう。闇を喰らい、不浄を好むと言われる魔族がよもやこれほど清潔を心がけると知れば」
「浄化は偉大な王たるお方のみの特別な儀式です。邪念を払い、呪いを拒むために御玉体は常に清く保たれなくてはなりません」
「邪念に呪いとは面妖な。わたしはてっきり、即位によって最高の地位と権力を手に入れたと思っていたが。
さても、それほどまでに臣どもに恨まれ憎まれる存在なのか、魔族の王とは。貴様はどう思うのだ」
「な……、わたしごときの浅き考えなど」
「言え」
「……」
ピサロナイトはしばし口をつぐみ、ためらいがちに言った。
「ピサロ様は、あまりに……お美しすぎるのです。魔族とは元来、邪悪、醜悪を是とするもの。
きらびやかな宝珠のごとき貴方様の美貌は、泥を這い毒をすすって生きる一部の魔物たちの激しい嫉妬を買うことでしょう」
「ならばこの顔に背中と同じほども傷をつけ、この髪を根こそぎ切り落とせば、わたしは英君として慕われるとでもいうのか」
「いえ」
ピサロナイトは首を振った。
「どれほど美しくとも、どれほど醜くとも、王たる君主とはただひとりきりの存在。すべての者に慕われる王など決しておりますまい。
これから貴方様のお座りになられる玉座には、絶対に外せない鎖のように孤独と憎しみがついて回ります。貴方様はそれを御自覚なさらねばなりません。
もはや、貴方様は決して幸福に生きてゆけはしないのです。王になるとはそういうことです。我が主、ピサロ様」
ピサロと呼ばれた男は紫色の瞳をすうと細め、肩を揺らしてくっくっと笑いだした。
「貴様のそういうところが気に入ったのだ」
「は……、はっ?」
「顔を見せろ。影の騎士」
ピサロは言った。
「その仰々しい仮面を外せ。いつも面頬を下ろしているゆえ、まだわたしは貴様の素顔を見たことがない」
「滅相もございません」
ピサロナイトはうろたえた。
「王の御前で、それはあまりに非礼」
「その王は既に生まれたばかりの赤子のごときありさまでいるというのに、これほど蒸した浴場の中でさえ分厚い鎧兜を着込む、貴様の方がよほど非礼であろう」
「どうかお許し下さい。わたしが無礼でありますればすぐにここから退出致します」
「ならばたったいま王として命ずる。影の騎士よ、今後わたしの沐浴介助は貴様ひとりのみだ。貴様以外の一切の浴室奴隷は要らぬ。
わたしが使う浴場はすべて貴様が磨きあげ、湯を溜め、香油を落とし、また沐浴中必ず傍仕えせよ」
ピサロナイトは驚いて絶句した。
「ピサロ様!」
「わたしは誰彼かまわず己れの暮らしに立ち入られるのを好む性質(たち)ではない。小姓も太刀持ちも、侍従は貴様以外ひとりとして要らぬ。
これから先、わたしの世話をする者は貴様だけだ。しかと覚え置け」
「……かしこまりました」
ピサロナイトは濡れた大理石の床に震えながら平伏した。
「まこと、恐悦至極にございます」
「もう一度言う。顔を見せろ」
ピサロは湯に浸かったまま、無表情に言った。
「わたしに同じことを二度言わせるな」
ピサロナイトは黙って面頬の留め金を上げた。革の顎紐をほどき、重々しい緑金色の仮面を頭から持ち上げてひと息に外す。
蒸した白い湯気の中、黄金色の髪が刹那、踊る。唐突にあらわになった影の騎士の素顔を、ピサロは真正面から凝視した。
「なるほど」
ピサロは呟いた。
「始終分厚い仮面を被って丹念に顔を隠すわけだな。
魔族らしからぬ容貌で要らぬ憎しみ恨みを買うのは、貴様も同じというわけか」
「御冗談を」
「その美しいかんばせをどうかロザリーには見せてくれるな。わたしとて男だ。つまらぬ嫉妬に身を焦がしたくはない」
「はっ、いえ……」
「冗談だ」
困惑するピサロナイトの傍らでピサロは愉快そうに笑い、ざばっと水しぶきを跳ねさせて立ちあがった。
「御玉体、お清め致します」
「わたしに手を触れるな」
ピサロは言いかけて止めた。
「……いや。お前ならば、よい」
浴室の強い湿気のせいで、壁から突き出した翼竜型の彫刻は既に全身濡れそぼっていた。あふれた湯に覆われた大理石の床は燭台の灯を受け飴色の幻光を放っている。
ピサロナイトはひどくぎこちない動作で、鎮座するピサロの体を丁寧に洗っていった。こわばらせた顎先から、湯なのか汗なのかわからないしずくが後から後からしたたり落ちる。
黄金色の香油を肌の上にたらすと、あたりは甘い香りに包まれる。先ほどまで火にかけられていた香油は痺れるほど熱かったが、ピサロは眉ひとすじ動かさなかった。
「貴方様ほどのお方が、なぜこれほどの傷を」
背中の傷跡に手をすべらせながら、思いきったようにピサロナイトが尋ねた。
「しかも、お背中に。考えられませぬ」
「昔、わたしにも母親というものがいた」
ピサロは言った。
「わたしは身分卑しき一介の魔族でありながら、なにゆえか生まれながらに強い力を持っていた。そんなわたしが目ざわりだと、幾度となく先王の手先の魔物どもに襲われた。
王であろうと、なかろうと同じことだ。いつの日も出る杭は打たれる。何度やってもわたしを倒せぬきゃつらは、次第にわたしではなく母親をつけ狙うようになった。
わたしとて肉親の情はある。たったひとりの母親に刃を向けられては、抵抗も出来ずただ彼女をかばうことしか出来ぬ。これは、その時の傷だ」
ピサロナイトは言葉を失って、あるじの背中に刻まれた無数の傷跡を見つめた。
「わたしの母は弱く、逃げることも知らぬ愚かな女だった。わたしは幼く、どうすればこの女を守ってやれるのかわからなかった。地にひれ伏して恐怖に震える母親に覆いかぶさり、背中を斬られ続けることしか出来なかった。
やがて母は死に、わたしは王となった。すべてが変わったが、傷跡は未だ残る。それだけのことだ。もう、顔も忘れた」
ピサロはほほえみ、影の騎士を静かに睥睨した。
「お前には想う者はいるのか」
「いえ」
「そのほうがよい。愛する者がいるとは、弱みなのだ。そしてわたしはまたしても同じ轍を踏もうとしている」
「二度とそのような事が起きませぬよう、わたしがこの命を賭してピサロ様にお仕え申し上げます」
「いつか、お前にロザリーを会わせよう」
ピサロは言った。
「どうしてもわたしから離れようとせぬ、か弱く強い精霊の娘。いとおしくて仕方ない、今のわたしの背中の傷だ」
「ピサロ様、髪をお洗い致します。目をお閉じ下さい」
ピサロは瞳を閉じた。黄金色の香油が溶けた湯が月光色の髪にまとわり、甘く腐ったような強い芳香が立ち昇る。
湯が流れるたび浴室は蒸し、白い湯気は広がり、辺りを包んでもはや間近にあるものさえ見えない。濡れて輝く髪のあいだを武骨な指が行き来すると、感情を押し殺したかすかな囁きが聞こえた。
傷は、いつか必ず消えるものです。ピサロ様
すると、囁きが返った。
この傷が消える時、わたし自身も同じように消えるのかもしれぬ
だが返答はもうなかった。存在は洗われて清められ、感傷は熱さのただなかに溶けた。魔族の王の浄化は儀式のように粛粛と進められた。
やがて湯の流れ落ちる音も途絶え、いつのまにかふたりの姿もそこから消えた。白い湯気の舞い上がる芳しい浴場は再び無機質な静寂に浸された。
―FIN―