ドラクエ字書きさんに100のお題



58・フケツです


幼い子供の頃、わたしはやんちゃな男の子のように泥だらけになって遊ぶのが大好きだった。

いつものようにお城をこっそり抜け出し、城下の教会に押しかけると、一番奥の部屋の扉をどんどんと容赦なくノックする。

姿勢よく机に着いて聖書を読んでいたクリフトの腕をはっしと掴み、彼が困惑するのも構わず無理矢理外へと引っ張り出す。

ふたり、手をつないだまま森まで一目散に駆け、木漏れ日を頼りに最深奥まで辿り着いた頃には、揃ってすっかり息が上がっている。

木筒に冷たいお茶でも詰めて持ってくればよかったと思うけれど、準備不足なわたしは遊べば喉が渇くことをいつも忘れてしまうのだった。

走りながら何度も靴で踏みしめたせいで、身につけている王族用のドレスの裾はあっというまにくしゃくしゃにほつれている。

クリフトはそれを見て困ったように眉を下げたが、とく咎めようとはしなかった。こんなことはもう、珍しくもないのだ。

教会にはちゃんとわたし用の新しい着替えが置いてあるし、必要とあらば沐浴だって出来る。サントハイムの聖なる神のすみかは、もはやわたしの第二の家だった。

まるでそこを縄張りにする動物のようにわたしはするすると身軽に木に登り、お前も来てよと上からクリフトに手招きする。

だが彼は少し心配そうに「どうぞ、お気をつけられませ」と言うだけで、どんなに誘っても絶対に登っては来ない。

一度、お前は木登り出来ないの?と聞いたら、「もしも姫様が誤って落ちてしまわれたら、下にわたしがいないと困るでしょう」と静かにほほえんだ。

かさかさした木の幹に思いきり抱きついても、広げた手のひらいっぱいに湿った枯れ葉の切れ端やダンゴムシを乗せても、クリフトは笑うだけで嫌な顔ひとつ見せない。

どうやら、わたしが泥んこになるのは嫌いじゃないみたいだ。そのくせ自分が汚れるのは気になるらしく、長い聖帽のひさしに跳ね飛んだ泥の飛沫を何度もこすり、取れないことに気づくと小さくため息をついた。意外と潔癖な面もあるらしい。

馬鹿なクリフト。そんなことしたってどうせ、最後はふたりで一緒になって汚れてしまうのに。

くたくたに遊び疲れて眠くなったわたしをおんぶして教会まで帰るのは、毎回きまって彼の役目なのだから。

森の木々は萌黄色の葉が息づく枝を心地良さげに伸ばし、まだ柔らかい若芽をあおあおと生やして空気を洗う。

草笛を吹いて遊んでいたわたしは足を滑らせ、うっかり体ごとサリマンドの茂みの中に分け入ってしまった。

「あれ、あそこでなにか動いてるわ」

「え?」

追いかけて来たクリフトは茂みの奥を怪訝そうに覗き込み、驚いて目を見開いた。

「姫様!見てはなりません」

「どうして?」

クリフトの手がばっとわたしの両目を隠し、途端に視界は暗転して何も見えなくなる。

わたしは不満の声を上げた。

「なにするのよ」

「こっちに来てはなりません。すぐに戻りましょう」

両肩を荒々しく抱きかかえられて回れ右をされ、半ば強引に元の場所へと戻される。

背中をぐいぐいと押され、無理やりに駆け足を急かされた。それで返って興味を引かれてしまい、わたしは首だけ曲げるとあわてて後ろを振り返った。

音だ。

音が聞こえる。

草がさわさわとこすれあってざわめく音。

子猫がしきりに鳴く声が響いている。

深緑色の盛り上がった葉むらの奥から、白い四本の足が絡まるように折り重なりあって突き出していた。

葉脈が透ける葉々の群れが規則的に揺れると、足も息を吹き返すように揺れに合わせてうごめく。

それはまるで、飢えた妖しい白蛇の踊りだった。ぴったりくっついて、くるくる螺旋を描いて、一向に離れようとしない。うっかりきつく結びすぎてほどけなくなった、大切なペンダントの鎖みたいだ。

あんなに絡まって、ちゃんと別々に離れることが出来るのだろうか。

わたしは前に向きなおりながらぼんやりと思った。

背後でまた、子猫が鳴く。

苦しくて仕方ないのか、それともなにか訴えたいことがあるのか、喘ぐように何度も何度も鳴いている。

「……フケツです」

だいぶ遠くまで来ると、やっとわたしの肩を離してクリフトが呟いた。

動揺しているのか、耳たぶまで熟れた杏のように真っ赤だ。

「なにが?」

きょとんとするわたしをクリフトは見た。なぜか、泣き出しそうな顔をしていた。

「アリーナ様、大変申し訳ありませんでした。もう二度とここへは遊びに来ないようにしましょう」

「どうして?わたし、この森は大好きよ。広くって、薄暗くていい匂いがして。

ここはまるで行き先のない迷路みたい。迷い込みさえすればどんな秘密だって隠せそうな気がするもの」

クリフトは顔を真っ赤にしたまま、唇をへの字口にしてなにも言わなかった。

「フケツってなに。どういう意味なの」

「……姫様はまだ九歳です。お知りになる必要はありません」

「クリフトだって、まだ十四才じゃない。わたしたち、たったの五つしか違わないのよ。年上ぶって隠し事をするのは止めて」

わたしはクリフトの背中におぶさるように飛びつくと、赤く染まった耳に尖らせた唇を押しあてた。

「教えなさい。あの子猫は、どうしてあんなに何度も鳴いていたの?

あの足の形をした鎖は、いつかちゃんとほどけるの?」

わたしの唇が耳たぶに触れると、クリフトはびくりと肩をすくめて「お止め下さい」といつになく荒っぽくわたしを振りほどいた。

「痛い!」

「あ……も、申し訳ありません」

「いいよ、もう。クリフトなんか知らない。ケチなんだから」

わたしが不機嫌そうにそっぽを向くと、クリフトは眉を歪ませて、ひどくもどかしげな表情を浮かべた。

「……本当にフケツなのは、きっと……わたしなのです」

力なく歩きだし、クリフトは思い直したように足を止めると、そっと手を差し伸べて来た。

「もう、帰りましょう。姫様」

わたしはその手を握った。白い手袋に包まれたほっそりした手。

サントハイムの聖職者はみな絹の手袋をしている。神に授かった聖なる手を俗世の穢れで汚さないためだ。だからわたしは、あまりクリフトの素手に触れたことがない。

「クリフトはあの子猫が、怖かったのね」

手をつないで帰りながらぽつりと言うと、クリフトは蒼い瞳でじっとわたしを見降ろし、こくりと頷いた。

「そうかもしれません。

でも本当に怖いのは、わたしも、もしかすると……、

……いえ、なんでもありません。もうここに来るのはやめましょうね」

そう呟くクリフトがあまりにも悲しげだったので、わたしはこの日のことを思い出してはいけないのだと悟り、いつしか記憶の奥底へ進んで封印していた。

だから大人になってもう一度ふたりであの森に行くまで、すっかり忘れていたのだ。

誰も訪れることのない森の奥深くでいつまでも嗚咽するように鳴き続けた、姿の見えない子猫のことを。

鬱蒼と茂る草むらの中で苦しさをこらえるようにのたうった、なまめかしい四本の白い蛇のことを。

幼さという殻をとっくに脱ぎ捨てたわたしたちには、この森のほかに隠れ場所などない。

もうわたしたちは互いの年齢を比べて揶揄し合う子供ではなくなった。木に登り、枯れ葉を掴み、泥だらけになって無邪気に遊ぶこともない。

世界はあの頃と違う色彩を注ぎ、かぼそい木漏れ日にふちどられた薄暗いその森の奥でだけ、わたしたちはようやくすべてから解放されて息をする。

クリフトが静かに手袋を外し、蒼い瞳を潤ませながらわたしの上に覆いかぶさった。

甘い白檀のかおり。絹のくびきから放たれた彼の指はこんなにも温かい。白い蛇のような四本の鎖がなまめかしく絡まる。動くたび、揺れるたび、葉脈が透ける無数の若葉がかさかさとざわめいた。

唇がわななく。ああ、今になってやっとわかった。

あの日の子猫はまぎれもない、わたし自身だったのだ。



―FIN―


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