ドラクエ字書きさんに100のお題
52・パトリシアの言語
土くれてすっかり汚れきった蹄鉄をていねいに磨いてやると、導かれし仲間たちの愛馬パトリシアは心地よさそうに濡れた鼻づらを持ち上げた。
全ての蹄鉄をきれいに磨き終わると、勇者と呼ばれる緑色の瞳をした少年は立ち上がり、普段の彼からは到底想像出来ない優しげな仕草で、パトリシアの顎先をそっと撫でてやった。
「今日も一日、頑張ったな」
なめらかな毛並みは肌にぴたりと寄り添って、無駄な肉ひとつついていない流麗な馬体の起伏をあらわにする。
日が暮れるまで荒ぶる大地を駆け続けた駿馬の白さは際立って鮮やかで、青闇色の夜に紛れて溶けてしまうこともない。
「ずいぶん長く移動したから、疲れただろ」
パトリシアはそんなことはない、というようにぶるんと鼻を鳴らした。勇者の少年は思わず笑った。
「そうか、お前がこれしきで疲れるわけないか」
まったくその通りだ、見くびらないでもらいたいとばかりに、パトリシアは磨いてもらったばかりの蹄鉄で地面を何度か踏んでみせた。
なにもひと晩休むことなどない。自分は今からだって走れると、訴えているのだ。まだまだ走れる。どこまでだって行ける。貴方が向かいたいと思う所すべてに連れてゆきたいのだ。このわたしの四本の足で。
「ああ、お前がうんと強いのは知ってる。だけど、人間は昼間動いたら夜は寝なきゃなんねえんだ。今頃みんな宿のベッドで高いびきだ。俺ももうすぐ戻る」
パトリシアは小さく息を吐いた。しゅんとしたようだった。なぜ人は家の中で、馬は厩で眠らなければならないのだろう。人間と獣はどんなに共に過ごしても、夢に還るときは別々の場所だ。最後の最後でいつも、同じ時間を分かち合えない。
勇者の少年はその様子を見ると、パトリシアにつられるようにため息をついた。
心優しく美しい愛馬の言語を、不思議と彼は理解出来る。もう失われてしまった幼ななじみの精霊の少女が、毎日楽しげに動物たちと語り合うのを見て育ったからだろうか。
人ではない友の言葉は音という壁を越え、吹きつける心地よい風のように、流れ落ちる清い水のように、五感の延長線上でごく自然に受容することが出来るのだ。それが少年は、とても誇らしかった。
「なあ、もしもさ」
勇者と呼ばれる少年は無造作に草むらに腰を下ろし、パトリシアを見上げた。
「お前はいい奴だから、こうして俺たちに文句も言わず付き合ってくれてるけど、いつかはこの旅も終わる。
その時……お前さ。もし、よければ」
美貌の少年はそこまで言うと、まるで恋しい相手への告白をためらうかのように頬を赤らめた。
「嫌だったら、無理にとは言わねーけど」
逃げ道を指し示すように前置きして、続ける。
「俺と一緒に、山奥の村へ来ないか?
……もし……もしも、お前がそうしたいと思ってくれるなら」
パトリシアはなにも言わず、宝石のように澄んだ紺碧の瞳で少年をじっと見つめている。
「すごくいい所なんだ」
勇者と呼ばれる少年は思い切って打ち明けて勢いを得たのか、まるでせき立てられるように話し始めた。
「そこに村があることを、人は誰も知らない。森をいくつも越えて、そのまた先の森のまた向こうに潜んでいる。
空気が甘くて、太陽が高い。あたり一面深い緑に囲まれていて、始終鳥が鳴いてる。花も木も豊かだ。お前が食う草なんか山ほどある。
村の真ん中には川に繋がる泉があって、大きな水車が回っている。魚もたくさん棲んでいる。不器用な父さんでもたまに大物を釣るくらいだからな。
村のみんなは動物が大好きだ。きっとお前のことを大事にしてくれる。お前みたいに綺麗な馬はなかなかいないから、みんなびっくりするはずだ。
お前の背中にシンシアを乗せてやりたい。いつか馬に乗って広い草原を自由に駆けてみたいって言ってたから、もしもお前に会わせてやれたら、絶対に喜ぶと、思……」
宵闇の虚空を泳いでいた勇者の少年の瞳が、その時はっと見開かれた。
「……違うや」
沈黙が立ち込め、自嘲するような苦笑いまじりの言葉が洩れる。
「なに言ってんだ、俺。馬鹿だな」
そのまま黙り込んでしまった勇者の少年に、パトリシアは慈しむように顔をこすりつけた。
勇者の少年はなんの反応も見せようとしなかったが、パトリシアがいつまでもそうして来るので、やがて仕方なさそうにほほえんだ。
「今でもたまに、わからなくなるんだ」
少年は呟いた。
「なにが現実で、なにがまぼろしなのか。
この旅が終わって故郷に戻れば、父さんも母さんも生きていて、シンシアもいつものように花畑にいて……なにもかも元通りのままで、悪い夢からようやく醒める事が出来る。
でもそんなのは嘘っぱちで、心の奥底ではあそこにもうなにもないのを知ってる。全部なくなって、ただの汚れた毒の沼地になった」
勇者の少年はパトリシアの白い首に腕を回し、静かに顔を埋めた。
「俺、帰る所がないんだ」
パトリシアはじっと勇者の少年に寄り添っている。
「ついてねえよな」
「……」
つかのまの静寂が通り過ぎ、パトリシアはかすかに首をもたげた。
勇者と呼ばれる少年は次の瞬間、弾かれたように顔を上げた。
「……本当か、それ」
パトリシアは聡明な瞳で少年を凝視すると、ヒン、と短くいなないた。なにを言われたのだろうか、勇者の少年の整った顔立ちにみるみる血の色が差し初めた。
「いいのか、それで。一度言っちまったら取り消せないぞ。絶対だぞ」
「……」
「約束だぞ」
「……」
「ああ、その時は馬車の荷台はもういらない。俺ひとりでお前に乗って行く」
「……」
「心配ないさ。毎日朝晩うまい飯を食わせてやるし、水浴びも好きなだけさせてやる。蹄鉄だって一番いいのを買う。
だから……俺と、一緒にいてくれ」
パトリシアはさっきよりずっと大きくいなないて、少年の頬を何度も舐めた。
勇者と呼ばれる少年は声をあげて笑い、草むらの上に背中から倒れ込んだ。
「初めてだ」
緑の目をした少年はうわごとのようにぼんやりと囁いた。伏せた睫毛の先で、宵闇が銀色の星屑をひとつぶ宿した。
「旅が終わるのが、楽しみになった」
ええ、わたしもですよ。いとしいご主人様。
この足を振り上げて大地をどこまでも疾駆して、連れてゆきたいのです。あなたの残された未来を希望という光の中へ。
パトリシアは体を屈め、ひとりぼっちの少年の心にたった今刻まれた約束を確かめるように、その瞳をやさしく、深く覗き込んだ。
少年は白い首に手を伸ばしながら、ふと不安になって、まるで夜空を証人にするように上を向いたままもう一度、「絶対だぞ。約束だぞ」と繰り返した。
―FIN―