ドラクエ字書きさんに100のお題
50・ここでお別れです
「それでは」
王城の庭園で気球を降りたサントハイムの王女アリーナ、クリフト、ブライの三人は、揃って後ろを振り返った。
「それでは……」
言ったものの続きが見つからずに黙り込み、全員どうしたらいいかわからず立ちつくす。
やるせない石像と化した三人の間を重苦しい沈黙が流れ、正面に立っていた勇者の少年は仕方なさそうにため息をつくと、アリーナに向けて顎をしゃくった。
「なにやってる。早く行け」
「う、うん」
「城の中は戻って来た人間であふれ返ってるんだ。大歓声がここまで聞こえて来る。
姫御前がとっとと凱旋しなきゃ、始まらねえだろ」
「わかってるわよ。そんなに急かさなくてもいいじゃない」
アリーナは唇を尖らせると、勇者の少年を上目遣いに見た。
「あ……、あのね」
「なんだ」
「わたしたち、あなたとこれからも一緒にいたいの」
アリーナは意を決したように言った。
「ライアンやトルネコの誘いを断ったのは知ってる。だけど、わたしにも言わせてちょうだい。
あなたは世界を救ってくれた。ここまでわたしたちを導いてくれた。サントハイムに愛する民が無事戻ってきたのはあなたのおかげよ。どれほど感謝してもしきれない。
このままさよならするのはどうしても嫌なの。だから……、勇者としてじゃない、かけがえのない大切な友人として、あなたをこのサントハイムに迎えさせてくれないかしら?」
また、沈黙が流れた。
アリーナは返事を聞くのを恐れるように、すうと息を吸い込むと急いで続けた。
「お願い」
緊張のためか早口すぎるその言葉を、これまで勇者と呼ばれて来た翡翠色の瞳の少年は、じっと聞いていた。
これで何度目になるだろう。地底空間を飛び立ってから、もう幾度も気球は世界のあちこちでその体を下ろした。
長い時を共に過ごした仲間たちは去り間際に振り返ると皆、それぞれの言葉で同じ問いかけをくれた。
この地で共に生きないか、と。
(……こういうの、幸せ者って言うんだろうな)
黙ったままでいる少年の唇の片方が、静かにほほえみの形に変わる。
(引っ越し先が引く手あまただ)
今までずっと、この世で一番不幸だと思っていたけれど、どうやらそれは違ったみたいだ。
「悪いが」
勇者と呼ばれる少年は両腕を組み、肩をそびやかすと表情を変えずに言った。
「断る」
「……でしょうね」
アリーナは鳶色の瞳を涙でいっぱいにして、唇を噛んだ。
「あんたをひとりにしたくないのよ」
「俺はひとりじゃない」
勇者の少年は言った。
「たったいま、それに気づいたところだ。だから俺は、自分の故郷に帰る」
「わかりました」
クリフトは深く一礼した。
「あなたのご意思を尊重すべきです。わたしたちにはこれ以上言うことはありません」
「そうしてくれるとありがたい」
「それでは、ここでお別れです」
その声を合図に、アリーナが大きくしゃくりあげた。顔を上げたクリフトの目と、勇者と呼ばれる少年の目がひたと重なった。
どちらの目にも、涙はない。当然だ。だって悲しいことじゃない。
これはよくある冒険の終わりにつきもののかりそめの別れで、自ら望みさえすれば、いつだってまたわたしたちは会うことが出来るのだから。
「さあ、姫様」
クリフトがアリーナを促した。アリーナは我慢しようともせずに泣きじゃくっていたが、クリフトの手がいたわるように背中に添えられると、唇をきっと引き結んだ。
「あんたにだけは負けたくない。そう思ってこの旅のあいだ、必死で鍛練を積んだわ」
鳶色の大きな瞳から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
「あんたはわたしの仲間で、友達で、最高のライバルだった。いつか必ず勝ちたい。そう思って戦い続けて来たの。
その思いは今も変わらない。わたしはこれからも、あんたに勝つことを目標に修行を続けるつもりよ」
勇者の少年は頷いた。
「俺もだ。お前には負けない」
「だから……、だからまたきっと、勝負しましょうね。約束よ」
「ああ」
勇者の少年の手がすっと伸びて、アリーナの手を握り締めた。
「約束だ」
「もし気が変わったら、いつでもサントハイムへ来て。待ってるわ」
「これからはお転婆もほどほどにしろ。国を守る、いい女王になれ」
「もちろんよ」
「けど、わからないよな。万が一お前とクリフトが結婚でもしたら、史上初の神官出身の国王が誕生するって可能性もある」
「ばっ……、急にな、なにを……!!」
傍らにいたクリフトは飛び上がった。ブライが目を剥き、「そんなことは断じて許さんぞ!」と杖を振り回して怒鳴った。
勇者の少年は笑いながら、軽々と気球に飛び乗った。ガスがごうっと音を立ててオレンジ色の炎を吹き上げ、巨大な気球は空へ向けふたたび上昇し始める。
「じゃあな」
アリーナは泣き濡れた目で、徐々に地上を離れてゆく気球を見つめた。
「……さよなら」
真っ青な空をゆるやかに昇る純白の気球。
手を振ることもなく静かにこちらを見下ろす、勇者と呼ばれた彼のエメラルド色の鋭い瞳。
これが、昨日まであれほど一緒に過ごした仲間との別れだなんて。なんだかよく出来た嘘みたいだ。でも、嘘じゃない。まぼろしじゃない。世界は救われ、邪悪は去った。夢にまで見た現実だ。
永遠のように長く、そして短かった旅。何もかもが終わり、これから始まる。今日はその記念すべき日なのだ。
(わたし、ずっと忘れない)
気球は上昇を止めない。まばたきするのも惜しくて、アリーナは懸命に目を凝らした。勇者の少年の姿が大空の青に溶け、どんどん小さくなってゆく。
(永遠に忘れない。この日を。この景色を)
もう二度と経験することはないだろう。これほどの感動と困難と、悲しみと喜びに満ちた旅を。
もう二度と味わうことはないだろう。祖国の民を失い、絶望の一歩手前で涙しながらも、仲間に励まされ必死で前を向いたあの日の切なる思いを。
そして、もう二度と共に旅することはないだろう。世界の存亡を賭けた戦いの連続の日々で、血よりも濃い絆を結んだ導かれし仲間たちと。
つらくて、苦しくて、でも言葉に出来ないほど素晴らしい、この旅はわたしの人生で最高の冒険だった。
「……あ」
クリフトがなにかに気づいたように首を傾けた。
「なんじゃ、クリフト」
「今、なにか聞こえませんでしたか」
「なにも聞こえないわ」
「いいえ、よく聞いて下さい」
クリフトがほほえんだ。
「瞳を閉じて、空を見上げて。
耳を澄ませて、自分だけの心の扉を開けて。
……ほら、聞こえる」
三人は並んで、同時に目を閉じた。なにも聞こえない。狭い視界に広がる世界はただの薄闇で、音も色彩もなにひとつない。
だが、それはある瞬間花火が弾けたようにあざやかに変わった。
空だ。空が広がる。抜けるような大空の青が、波紋を落としたように瞳いっぱいにぐんぐん広がってゆく。
その中心をゆるやかに昇りゆく白い気球から、緑色をしたかすみゆく人影が、こちらに向かって大きく手を振っていた。
(また、会おうな)
人影は笑っていた。
(いつか、きっとまた)
そして、気球は青空の向こうへと姿を消した。
純白の雲の海を抜け、虚空を舞い上がり山を越え大陸を越え、もう誰もいない故郷へたったひとり帰るのだ。
三人は静かに目を開けた。誰も言葉を発する者はなかった。
香り高い一陣の風が、凪いだ静寂の中を吹き抜ける。手に入れたばかりのまっさらな新しい世界が、きららかな水のようにそこに佇んでいた。
―FIN―