ドラクエ字書きさんに100のお題
42・水平線
「すいへいせん、すいへいせーん、どこにある」
甲板に吹きつける潮風が、歌うマーニャの長い髪をなびかせる。
稀代の踊り子である彼女も、どうやら歌の方はさほどでもないらしい。時々調子の外れるメロディと共に、彼女がまとっている香水の甘いかおりが流れて来た。
その香りにうっとむかつきを誘われて、勇者と呼ばれる少年は顔をそむけると手のひらで口を押さえた。
気持ちが悪い。なんだ、これは。
上を向いても下を向いても気持ちが悪い。気の進まぬまま船に乗り込んでしばらく経つと、なぜか突然強烈に気持ち悪くなったのだ。酒は飲んでいない。体調もとくに悪くはなかった。なのに、なぜ。
それが船酔いだということが、生まれて初めて船に乗った勇者の少年にはわからない。
わからないから、ひどく恐ろしかった。大体この船に乗るのだって恐ろしかったのだ。こんな重い塊がどうして水に浮くんだ?子供の頃、愛用のナイフを川に落っことしたらあっというまに水底へ沈んで行ったのに。
全てを失い、失意のうちに郷里の村を飛び出した勇者の少年は、紆余曲折を経てミネアとマーニャという仲間と出会い、コナンベリーの街にたどり着いた。
生粋の山育ちの彼にとって、生まれて初めて目にする海。波しぶきを巻き上げる、途方もなく大きな水たまりに言葉もないほど仰天する。
だが傍らのミネアもマーニャも心地よさそうに深呼吸などしていて、眼前に佇む巨大な水がめにまったく動じる様子はない。
波は一定のリズムを保ち、押し寄せてはまた引いてゆく。
突然あふれ返って地上が水に飲み込まれてしまうことは、どうやら今のところなさそうだ。
安心した矢先、トルネコという三人目の仲間まで加わり、今度は船で大海原へ繰り出す羽目になってしまった。苦労の末に手に入れたキャラベル船で港から出航して、早や数時間が経過した。
気持ちの悪さは一向におさまらない。むしろひどくなるばかりだ。唇が白くなり、こめかみに冷たい汗が湧く。
(やべ……、吐きそうだ)
こらえきれなくなった勇者の少年は体を折って前かがみになり、ごく小さな声でホイミの詠唱をとなえた。
ほの黄色い幻光が体を包み込み、途端にすごく楽になったような気がする。
だがそれは一瞬のことで、間髪入れずに再び激しい気持ち悪さが襲って来た。当たり前だった。どんなに回復魔法を唱えようとも、彼の足の下で船は依然揺れ続けているのだ。
「ねえ、ちょっと」
ようやく異変に気付いたマーニャが、歌うのをやめて眉をひそめた。
「あんた、どうしたの?顔が真っ青よ。ひょっとして船酔……」
「どうもしてない」
勇者の少年は首を振ってさえぎった。
「大丈夫だ」
「でも、ひどい顔してるわよ。きっと船に酔……」
「来るな」
そばへ近づこうとするマーニャを睨みつけ、勇者の少年は後ずさった。
「平気だって言ってるだろ」
「嘘おっしゃい。そんな死にかけのマーマンみたいな顔色して、何が平気よ。だから船に酔っ……」
「それ以上近付くな!」
勇者の少年は鋭く叫んだ。マーニャがびくっとひるみ、みるみる怒りで頬を赤くする。
「いいかげんにしなさいよ。こっちは心配してやってるのに、その言い方はないでしょ」
「どうしたんです」
騒ぎを聞きつけたミネアとトルネコもこちらへやって来た。
「喧嘩はよして、姉さん」
「あたしは喧嘩なんかしてないわよ!こいつがつらそうにしてるから声をかけたら、いきなり寄るな近づくなと来たのよ」
「どうかしたのですか、勇者様」
ミネアが問いかけると、すでに限界に来ていたらしい勇者の少年は、甲板にがくりと膝をついた。
うぷ、とえづくが、必死の忍耐力でこらえる。皆の前で無様な失態をさらすくらいなら死んだほうがましだった。
「まあ 、もしかして船に酔っ……」
「誰もそばに来るな」
勇者の少年は震える手を突き出して仲間を拒んだ。
「悪い。覚えはないが、どうやらタチの悪い伝染病にでもかかっちまったらしい。急に調子が悪くなった。ホイミも効かない。
誰にもうつしたくない。それ以上こっちに来ないでくれ」
「伝染病?」
ミネアは目を丸くした。
「まさか。ただの船酔……」
「しっ、ミネア」
事の真相に気がついたマーニャが、笑いをこらえながら意地悪そうに言った。
「大変だわ。あんた、とんでもないものを持ちこんでくれたわね。
その伝染病はね、フナヨイといって胃がこね回されるように気持ちが悪くなり、目まいがして頭も痛くなって、最後は死に至るという恐ろしい病なの。
薬も効かないし、感染力もものすごく強いのよ。悪いけど、今すぐこの船から降りてくれないかしら?」
「ああ」
勇者の少年は苦しげに頬を歪ませて頷いた。
唐突に立ち上がるとふらつきながらも駆け出し、猫のように敏捷に船の舳先に飛び乗る。
「ちょっ、お待ちください、勇者さ……」
「じゃあ俺はここまでだ。あんたたちのおかげで色々と助かった。
今まで」
少年は真っ青な顔でほほえんだ。
ありがとう
唇が動くと同時に跳躍し、大海原へためらいなくその身を躍らせる。
「きゃあ、待って!冗談よ!やめなさ……!!」
マーニャが悲鳴を上げた瞬間、
「ラリホー!」
ミネアが呪文を叫んだ。
間髪入れずトルネコが飛びかかる。空中ぎりぎりで羽交い締めにされた勇者の少年の体から、がくりと力が抜けた。
「……よく寝てるわ」
勇者と呼ばれる少年は眠っている。
まるで糸の切れてしまったあやつり人形のように、無防備に手足を投げだして甲板に横たわっている。
映す相手を常に睨みつけてばかりの緑の瞳は、今はしっかりと閉じられている。仲間たちに囲まれ、まじまじと見つめられていることなど気づきもせず、かすかに開いた唇は規則的な呼吸を繰り返していた。
「だいぶ、顔色がよくなって来ましたね。初めての船旅にずいぶん緊張していたんでしょう。もうしばらくこのまま寝かせておきましょう」
「それにしても、まさか陸地も見えない海のど真ん中で、船から飛び降りようとするだなんて……」
ミネアはマーニャを非難の目で見た。
「勇者様をからかうのもいいかげんにしてちょうだい。姉さん」
「あら、あたしが言いだしたんじゃないわよ。伝染病だなんてさ」
マーニャはくすくす笑って、眠る勇者の少年の顔を見降ろした。
「世界を救う伝説の勇者様も蓋を開ければ、世間知らずのまだ17歳のお子様ってことか。
生意気でいけすかないガキだけど、かわいいところもあるわよね。
誰にもうつしたくない、それ以上こっちに来るな!ですって。まったく、優しいんだか感じが悪いんだか」
「きっと、もう誰も自分のために犠牲になってほしくないんですよ」
トルネコが静かに言った。
「彼の故郷の村がどうなったか、噂を聞いたでしょう」
ミネアとマーニャは黙って少年の硬く閉ざされた瞼を見つめた。
「ま、しかたないわね。起きたら種明かししてやることにしましょ。海は広いのよ。船酔いするたび大騒ぎされたんじゃたまらないもの。
ミネア、なんかあったかい物でも作ってあげて。大体こいつ、小食すぎるのよ。お腹が満たされていないから船に酔うんだわ」
「じゃあせっかくの船上だし、魚のスープをこしらえることにしましょうか。勇者様は、海の魚は初めてだろうから」
「ですって。よかったわねえ。あんたのこれからの毎日、まだまだ初めてがいっぱいよ」
マーニャは指でぴん、と眠る勇者の少年の鼻先を弾いた。
「負けるんじゃないわよ。這い上がるの。しんどいことがあったぶん、楽しいこともたくさんあるわ。人生ってそれほど捨てたもんじゃないんだから。
ただし、船の揺れには慣れてもらわないと困るわよ。海には波ってものがあるんだからね。
寄せたり引いたり、時には荒れたり凪いだり。これも人生と同じ。うーん、あたしって哲学的」
少年は微動だにせず眠り続けている。
ミネアは食事の支度をしに船室へと降り、トルネコは舵輪を握りに船首へ戻って行った。マーニャは眠る勇者の少年の足元に腰かけると、空を見上げた。
天空は晴れ渡り、海と空の境目は濃淡の違う青さでまっすぐに切り分けられている。潮風にあおられ、まだ張ったばかりの白い帆がはためいている。
長い髪がなびく。身にまとわせている香水のかおりが流れたのだろう、少年の尖った頬がわずかに動いた。が、すぐにまた深い眠りに落ちて行ったらしく、ひそやかな寝息はふたたび一定のリズムを刻み始める。
マーニャはほほえみ、体を揺らしてまた歌い始めた。
「すいへいせん、すいへいせーん、どこにある」
―FIN―