ドラクエ字書きさんに100のお題
10・思ったほど悪くはない
朝まだ来の森の中に、ピサロはひとりで立っていた。
足元には野苺の茂みが、丸くて愛らしい実を鈴生りに下げている。木々のあいだに漂うもやと、目覚めたばかりの動物たちが立てる足音を包む大気は、なんとすがすがしく心地良いことだろうか。
森の空気は、特有の香り高さをたたえている。苔むした地面のほんのりと湿った匂い、まだはえたばかりの茸たちの菌糸の匂い。
群れて咲く石楠花(しゃくなげ)と、みずみずしい野苺の匂い。とろりと飴色に輝く樹脂の匂い。モミの葉の匂い。濡れた土の匂い。それら全てが渾然となって漂わせる、甘く熟した果実酒のような匂い。
生きているものの匂い。
ピサロはそれを身体全部で吸い込むように、立ちつくしたまま両手を広げ、紫色の目を閉じて深く呼吸した。
吸って
また 吐く
そして また
吸って
軽い麻痺のような感覚が、こめかみから喉をすべり落ちる。肺の奥まで吸い込んだ空気が細胞のひとつひとつに浸み渡り、濃縮された二酸化炭素が唇からこぼれ落ちてゆく。
呼吸するということは、生きることだ。どんな異形の魔物とて、すべからく呼吸している。この星自身とて、呼吸している。酸素という衣服にくるまれることで生きている。
星は生き物なのだ。誰にも蹂躙されてはならない、巨大で優しいひとつの命なのだ。そんなことも気づかなかった。己れがこの世で最も強大な存在だと信じて疑わなかった、あの頃は。
ピサロは屈み込み、野苺の茂みからひと粒を無造作にちぎり取った。小高い木々の向こうから、カッコウの甲高い鳴き声が響いた。
朱赤色の実を、そっと口に放り込む。小さな果実を噛みしめると繊維の砕ける感触がして、粗野な甘酸っぱさが舌の上にふわりと広がる。美味い。
野に実る果実など、初めて食べた。
無論、これが今日ここに突然生ったわけではないだろう。恐らく何十年、何百年と野苺はこの星で花を咲かせ、実をつけて来たのだ。植物はそれを繰り返すのだ。なのに自分は、そんなことすら知らなかった。根を持ち葉を持つ命の崇高な営みさえ。この赤い実の、心震わせる甘ささえ。
我がものたらんと望んでいた世界は、蓋を開けるとあまりに知らなかったことだらけだ。
目を閉じたピサロの頬にほほえみが煙のようにくゆり、そのまま音もなく振り返った。そこに立っていた人影の存在に、とうの昔から気づいていた。
「おはようございます。お茶が入りましたよ」
萌黄色の法衣を着た背の高い神官が手にした木杯から、香草のかおりとあたたかな湯気が上がっている。
ピサロは黙ってそれを受け取った。神官の蒼いまなざしが、労わるように柔らかくなった。
「森は冷えます。ここでひとりきり夜を明かすのは、魔族のあなたとはいえ身体に酷でしょう。
どうしてわたしたちと共に、焚き火の傍のテントで眠らないのですか」
「人間と馴れ合うつもりはない」
ピサロは冷えた月の息吹のような声で言った。
「かりそめに共に旅するとはいえ、人間に阿(おもね)るつもりなどない。不如意に近付かねば、互いに無用な不快を覚える必要もなかろう」
「なぜ、そうも徹底して距離を取ろうとするのですか。あまたの恩讐を超えて、今やわたしたちは旅の仲間なのですよ。
あなたが犯した罪の分だけ罰を受けたことは、皆も承知の上です。贖罪を望む者は許されなければなりません」
「そう思うのは、神の僕であるお前だけだ。サントハイムの神官」
ピサロは感情のこもらない声で囁いた。
「わたしの罪は罪という名の踏み絵であり、今なお過去という傷口から血を流させ続けているのを知っている。
あの、翡翠色の瞳をした天空の勇者。もしもわたしがこれ以上近づこうものならば、あの少年はたちまち我れを忘れて腰の剣を抜き、わたしの頭上へと容赦なく振り下ろすだろう。
あたり全てを切り裂くようなすさまじい殺気を、毎夜あの少年から感じる。お前も気づいておらぬはずがあるまい。あの少年は今、限界点でわたしへの殺意に耐えている。
大地に身を横たえ、噛みしめた唇をふるわせながら、全てを奪った仇と共に旅する苦しみと戦っている。お前は下らぬ友達ごっこをしたいがために、あの少年にさらにあれ以上の苦悩を強いるというのか。
あの少年の苦しみを理解出来る者あらば、それはこの世でただひとり、わたしだけだ。それゆえわたしは自らあの少年に歩み寄るつもりはない。
我れらは魔族の王と天空の勇者。相反する陰と陽の合わせ鏡の存在、互いにその姿を映しながら、さりとて決して相容れぬ」
ピサロは喉を反らせて木杯の中身をぐっと干すと、萌黄色の法衣の神官の胸に空の杯を押しつけた。
「美味かった。が、もう二度と持って来るな」
「いいえ。わたしはまたあなたにお茶をお持ちします。それは誰かの指示ではなく、わたし自身がそうしたいと望むからです。わたしはわたしの意思を貫きます。誰にも指図はされません」
クリフトは蒼い瞳で真直ぐにピサロを見つめた。凪いだ湖水のような、ひとすじの揺らぎもない瞳だった。
「ピサロさん。あなたのまことの心を聞かせて下さい。人間の注いだ香草茶の味はいかがですか。その香りと滋養があなたの身体に注ぐ、神がしろしめす大地が紡いだ癒しの力は。
いかがですか。湯気の立つ温かい茶を静寂と朝日の中で味わえる、わたしたち人間の穏やかな暮らしは」
ピサロは長い沈黙の中で、瞑想するようにしばし目を伏せた。風がざわめいて、木々が葉擦れの音を奏でた。
やがて顔を上げると、食い入るようにこちらを見つめる神官にくるりと背を向け、片腕で緋色のマントを翼のようにはためかせた。
「……そうだな。
思ったほど悪くはない」
-FIN-