ドラクエ字書きさんに100のお題
1・記念日
「ねえ、あなた。今日は……」
ニッケ色によく焼けたジャガイモを盛った皿と、オニオンと青菜のスープをテーブルに並べながら、ネネはおずおずと口にした。
「ん?」
膝の上で広げた売り上げ帳簿に目を落としていた夫が、顔を上げる。傍らでは育ち盛りの息子ポポロが、湯気を立てるハト肉のミルク煮を、器に顔を突っ込んで必死で食べている。
ネネ自慢のジビエ料理は、だが今は子供のみのメニューだ。夫にはこのところ、肉料理を控えるようにしてもらっている。それでなくともまた、おなか回りがふくよかさを増した。商売以外に関心のない夫の健康管理は、妻の大事な務めだ。
二年にも渡る長い苦難の旅を越えて来たというのに、夫は何故か少しも痩せなかった。一体どんな旅の日々を送ったのか、家で留守番を務めただけの自分は詳細を知る由もない。が、きっと食生活は充実していたのだろう。
「今日は……」
「お母さん、おかわり!」
続けようとした言葉は、息子の快活な声に遮られた。
ネネは仕方なく口をつぐんでほほえむと、空になった器を受け取って二杯目のミルク煮をよそってやった。
「今、なにか言いかけたんじゃないかい?ネネ」
「いいえ、なんでもないの」
「そうかね」
夫は軽く頷くと、瞳をまた膝上の帳簿へ戻し、ひとしきり視線を動かしてから満足げに手のひらで丸い顎をさすった。
どうやら、本日の売り上げは目標設定の高い彼にとっても、至極納得の行くものであったらしい。
夫が旅に出ている間、自分は華やかな都エンドールで預り所を女手ひとつで切り盛りして来た。既に十分なほどの収入を得ていたが、やはり夫の夢は、世界一の商人だ。
旅が終わると同時に預り所は畳み、再び店を始めた。今度は武器に防具、道具に薬草、衣類に食品類まで幅広く扱うよろず屋だ。
受け取ってはまた返すだけの預り所とは、忙しさが格段に違う。天性の商人である夫は、忙しさに比例するように生き生きとしていったが、子育てと家事をこなしながら同時にそれを手伝う自分には、商売一本に身を捧げる夫とは違う種類の苦労があった。
朝、目が覚めるともう時間に追われている。夫を助けるため懸命に働き、仕事を終えてひと息つこうにも、子供はすぐにおなかをすかせるし、学校の宿題だって見てやらなくてはならない。
掃除や洗濯、料理は一日たりとも休めない。家事に採点はつけられるものではないが、だからと言って他の誰かが代わってくれるわけでもない。手を抜けば手を抜いた分だけ、そのしわ寄せは目に見える形で自分に返って来る。
忙殺される日々はまるで風にあおられる本の頁のようで、まだ全部読んでもいないうちにぱらぱらと次から次へめくられて行き、好きな台詞を見つけてしおりを挟む暇もない。
ああ、もっとゆっくり、今日という題名の書物を心ゆくまで読み込んでみたい。
わたしはこの忙しくも変わらない毎日の中で、もしかしたら大切ななにかを見落としているのではないだろうか。
例えばポポロのいつも明るい笑顔や、売上帳簿とにらめっこする夫がぶつぶつ呟く声の、もうひとつ向こう側にあるなにか大切なものを。
だから、今日こそは。今日という特別な日こそは……。
「ネネ、紅茶に入れる角砂糖を三つ取ってもらえるかい。ネネ?」
「あ、ごめんなさい」
はっと我れに返ったネネは、誰にも気づかれないように小さくため息をついた。
……そうだ。忙しいわたしたちに特別な日なんてない。これが現実。
食事を取って、食べ終えたら片づけて。眠りについて目が覚めたら、また明日も慌ただしい一日が待っている。
家族というコミュニティを守り、変わらぬ生活を営んで行くための絶え間ない毎日の繰り返し。それが幸せというものなのだと、頭でわかってはいるのだけれど。
「お砂糖なんて駄目よ。今、あなたは節制中なのに……それにお茶なら、お食事の後にして下さらないと」
「疲れていてね、どうしても先に甘いものを喉に流し込みたいんだよ」
「でもそれじゃ、お肉料理を控えている意味がないでしょう」
「頼むよ、ネネ。どうしても今日は、砂糖をたっぷり入れた紅茶の気分なんだ」
珍しく引かない夫に、ネネは肩をすくめると、「じゃあ、今日だけよ。でも、お砂糖はひとつ」と、銀製の砂糖缶を手に取ってふたを開けた。
瞬間、驚いて目を見開く。缶に詰まっているはずの角砂糖は、そこに一粒もなかった。
代わりに隅までぎっしりと詰まっているのは、かぐわしい香りを振りまく赤、白、黄の色とりどりの薔薇の花びらだ。そしてその中心に、なめらかなプラチナが目も綾と輝く指輪が、女王のように誇らしげに体を横たえている。
「……これ……」
「おめでとう、お母さん!お父さん!」
呆然と呟くと、隣で口の周りにミルクソースをいっぱいつけたポポロが跳びはね、その拍子に子供用の小さな椅子が後ろにがたんと倒れた。
「もう、お父さんったら切り出すタイミングがほんとに下手くそなんだから。砂糖缶を開けてもらうのは、ご飯を食べた後だってよかったでしょ」
「そ、そうかね。でも、食事を終えたらお母さんはすぐ後片付けに席を立ってしまうものだから、なんとかして先に渡さないとと思ったんだよ」
「もしもお母さんが、お砂糖は駄目よって缶を開けてくれなかったらどうしようかって、すっごくひやひやしちゃった。
でもうまく行ってよかった。お父さん、お母さん、結婚記念日おめでとう!」
「結婚、記念日」
ネネは呆然と繰り返した。
「覚えていてくれたの?あなた、今日のこと……」
「商売と違って、こういう演出ってやつは苦手なものでね。もっとほかにやり方もあったんだろうが、どうも……ぱっとしなかったかな。すまないね」
夫は頭をかくと、膝上に乗せていた売上帳簿を縦に持ち上げた。
「君へのメッセージだよ」とはにかみながらネネの前で掲げ、たどたどしい発音で囁く。
帳簿によく似た黄色い羊皮紙の真ん中に、鵞ペンを使って大きく丁寧に文字が描かれている。もう何年も見なれた、夫の字。
Ti amo.Nene
愛してる ネネ
Grazie per tutto quello che hai fatto per me.
君がわたしのためにしてくれた、全てのことにありがとう
Vedi come sono pazzo di te?
わたしがどんなにきみに夢中かわかるかい?
Tu sei tutto per me.
きみはわたしのすべてなんだ
Ti amo, ora e per sempre.
今も、これからもずっと愛してる
彼がさっきから何度も確認していたのは、忙しくてならない店の本日の売上げなんかじゃなかった。
それは出すタイミングをじりじり見計らって、緊張の末に何度もこっそり見返した、もう今はない古い国の愛の言葉。
風が一瞬止み、めくられ続けていた本がある頁で止まる。忘れられていたわけじゃない。見落としていたわけでもない。
めまいがするほど忙しい日々の中にも、吸えば身体に入って来る空気のように存在する大切な何かは、わたしとあなたという題名の一冊の書物に、今日もちゃんと力強い文字で綴られている。
「ありがとう、あなた。トルネコさん……、ポポロも」
うわずった涙声が震えた。
「こんな素敵な記念日のサプライズプレゼントを、本当にありがとう。
わたし、世界一の奥さんにはなれないかもしれない。だけどこれからも、世界一の商人の奥さんでいさせて下さいね。ずっと、永遠に」
「わたしのほうこそお願いしたいな。君がいないとわたしは働けない。
我儘勝手な商人トルネコには、君という支えが必要なんだ。わたしのかけがえのない奥さん、ネネ」
「あなた……」
「ネネ……」
ひしと抱き合い、熱烈にキスを交わす両親をポポロは半ば呆気にとられて見ていたが、はっとして、
「お父さん、ぼくもふたりにプレゼントをあげたいよ。
お父さんとお母さんが結婚しなくちゃ、ぼくは生まれることが出来なかったんだもの。だから今日はぼくにとってもすごく嬉しい記念日だ。
お父さんとお母さんに、ぼくからもプレゼントをあげたい。なにがいいかな?」
するとトルネコは、ネネの左手の薬指にプラチナの指輪を嵌め、その身体をひょいと横抱きにかかえ上げた。
「きゃっ、あなた!」
「お父さんとお母さんが君から貰ってとても嬉しいプレゼントがひとつあるよ、ポポロ。
それはとても健康的で、しかもお金がかからず、お手軽だ」
「なんだい、それ」
「それはね」
トルネコはおどけるように豊かな口髭をうごめかせ、息子にぱちりとウインクをした。
「今夜は早くベッドに入って、朝まで一度も目が醒めないくらいぐっすり眠ることだ。
それがお父さんとお母さんへの一番のプレゼントだよ、ポポロ。なあ、ネネ」
ネネがぽっと頬を赤らめたので、ポポロは不思議そうに両親の顔を見比べた。
-FIN-
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