導かれし者、夢を買う。



「勇者様」

扉の開いたバルコニーの両端には、青銅の大振りな燭台が吊るされ、橙色の光を星のない闇夜に散らしている。

建物からアーチ型に張り出した白木の柵に、猫のように自堕落に体をもたせかけていた勇者の少年は、クリフトの手に握られている絵をじっと見た。

「もしかして、お前もトルネコから絵を買ったのか」

「は、はい。恥ずかしながら」

「お前……聖職者のくせに、どんだけ俗物なんだ。煩悩に踊らされる馬鹿なのか」

「しょうがないじゃないですか!トルネコさんの絶妙な営業トークに乗せられて、つい一瞬、うかつにも心が想像の世界へと飛んでしまったのです。

あなたこそ、いいんですか。ネス○フェの空き瓶にこつこつ貯めた、大事な小銭貯金をこんなものに使っちゃって」

「う、うるさい。また一から貯めるからいいんだよ」

「仲間内でのへそくりは禁止だって、さっきトルネコさんに言われたでしょう。こっそりお金を貯めるのはもう駄目ですよ」

「ふん。仲間、仲間か」

勇者の少年は美しい顔をしかめた。

「なんて面倒で、都合のいい言葉だ。自分には仲間がいるってだけで、やりたいことも自由に出来なくなる」

「でも、仲間がいるからこそ出来ることもたくさんあります。

都合がいいのではなく、懐が深い言葉、と言うのですよ」

勇者の少年は真顔でクリフトを見つめ、しかたなさそうに目を逸らして、バルコニーの上空に広がる濃紺の夜空を見上げた。

「たしかに、こうして欲しくもない絵を買うなんて、仲間に勧められでもしなきゃ有り得なかったな。

でも、この絵のおかげで気付けたことがあったから、高くついちまったけど、必ずしも無駄な買い物ってわけでもなかった」

「気付けた?なにをです」

クリフトが首を傾げると、勇者の少年は白木の柵に片肘をつき、手に入れたばかりの絵を懐から取り出して見せた。

それはよれよれの古びた羊皮紙で、クリフトが買ったような、派手な色彩が幾重にも塗られた艶やかな女性画ではなかった。

モノクロームの尖筆で描かれた、長い髪をした華奢なひとりの少女が、紙の真ん中で花束を抱いてほほえんでいる。

絵をかたどる輪郭線はごく薄く、何らかの理由で描きかけのまま放り出されてしまったのか、少女には胸から下の部分がなく、細い上体だけが無数の白黒の花の上にぽかりと浮かんでいた。

最後まで描き上げてもらえなかった己れの運命を恨むでもなく、紙の中の少女はただ、静かに笑っている。

それが不思議と、過ちも畏れも全てを許す、物言わぬ慈愛のほほえみに見える。

数ある華やかな女性たちの絵の中で、なぜ勇者の少年が色すら塗られていないこの一枚を選んだのか、クリフトにはなんとなくわかるような気がした。

「俺さ。時々……」

勇者の少年は言いかけて黙ったが、クリフトがなにも言わずにいると、しばらくして再び喋りはじめた。

「……時々、不安になったんだ。

俺は生きて、これからも歳を取っていくけれど、この世にいる限り、生身のあいつに会うことはもう二度とない。

あいつは今もあの時のまま、あの日の姿のままでそこにいるのに、俺の時間は止まらずに進み続けていく。

このまま、俺だけがどんどん変わって……、何十年も時が経って、もしかしたらいつか俺はあいつのことを忘れてしまうんじゃないかって思うと、毎日が突風みたいに簡単に過ぎていくのが怖かった。

でもこの絵を見ていたら、どうしてだかわかんねえけど、そんなことはないって解った。

俺にとって、あいつは時が経てば色あせてしまう絵なんかじゃない。

どんなに似てたって、俺は他の奴じゃ駄目だ。あいつじゃなきゃ駄目だ。



俺はどれだけ歳を取っても、どれだけ違う自分に変わっても、あいつ以外は誰ひとりいらない」





まるで今ここにいない「あいつ」の前で、騎士が誓いを立てるかのように、勇者の少年は奇妙に厳かな口調で呟いた。

でも、それはとても美しく気高いけれど、同時にとても悲しい誓いだ。

もう二度と触れることすら出来ない相手を生涯想い続けると決める、誰のぬくもりもない、胸がつぶれるほど悲しいひとりきりの未来への誓い。

それがただの長すぎる悲しみなのか、それほどまでに誰かを愛せたという終の幸福なのか、彼以外には誰にも解らない。

独白の含羞を振り切るように、勇者の少年は下を向いて黄色い羊皮紙を両手で掴み、ごそごそと手を動かし始めた。

「おい、クリフト。お前の買った絵もよこせ」

「えっ?」

「こんな下らない絵に鼻の下を伸ばして、夢にこそこそ逃げるのは止めろ。

好きでしょうがない相手が生きてるうちに、やらなきゃならないことはいくらでもある。妄想に耽ってる場合じゃないだろ」

手先の器用な勇者の少年が指を巧妙に動かすと、あっというまに艶やかな娘たちの描かれた二枚の羊皮紙はふたつの紙飛行機に変わった。

そのひとつを無造作に手渡され、クリフトは呆気に取られたが、やがてこらえきれずくすくすと笑いだした。

「これは……、トルネコさんも驚きの、とびきり高価な紙飛行機です」

「金はちゃんと払った。その品をどう使おうと、俺たちの勝手だ」

「恋に不毛なわたしたち二人が夢を買うお遊びは、これであえなく終了ですね」

「不毛な二人って言うな。お前と俺を一緒にするな」

「神に誓って、もう無駄遣いは絶対にしません」

「ああ、そうしろ。無駄な金なんてない。

金ってなんのためにこの世にあるのか解らないけど、あんなきらきらしたもの、きっと大事にしなきゃ駄目だ」

勇者の少年は夜空を見上げ、紙飛行機を掴んだ左手を、力強く振り上げた。

クリフトも夜空に向かって高々と紙飛行機を掲げ、「やっ」とかけ声を上げて腕を振り下ろした。

闇夜に黄色い紙飛行機が、つがいの鳥のように並んで舞う。


期待と希望とほんの少しの諦めと、ひそやかな悲しい誓いを乗せたふたつの紙飛行機が飛んで行く。





「ああ、それにしてももったいなかったな。姫様のために使うつもりだった、大切な七百ゴールド」

「お前……やっぱり俗物神官だ。そんなに金が欲しいなら、いっそ一発逆転狙うか」

「ど、どういうことです」

勇者の少年は片目をつぶった。

「明日の目的地はエンドールだ。

到着した最初の晩に、宿を抜け出してふたりでカジノに行く」

「な……っ、あ、貴方様というお方は……!

ついこの間まで、お金がなんなのかも知らなかったくせに!」

「人生、なにごとも経験だってトルネコが言った。経験してこそ知識は身につくもんだ」

「それこそ、都合のいい言葉ですよ。それにあの絵でお金を全部使い果たして、一発逆転も何も、わたしたちにはもう元手がありません」

「バーカ、俺の小さな努力を甘く見るなよ。じつは1ゴールド入りネ○カフェの空き瓶は、あと三つ隠してある。

俺たち、まだまだ夢が買えるぜ。クリフト」

クリフトがぽかんと口を開けると、勇者の少年は唇の片方だけでにっと笑い、胸の前でVサインを作った。

この調子ではどうやら明日も今夜と同じく、いやもっと即物的な夢に興じる、長い夜になりそうだ。

欲しいものに思い切ってお金をつぎ込んで手に入れて、失くした先からまた取り戻そうとする、わたしたちはそれでも、かりそめの夢に酔いたい。

勇者の少年とクリフトは数秒顔を見合わせ、示し合せたように同じタイミングでくっと肩を揺らすと、どちらかともなく声を上げて笑った。




-FIN-


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