氷竜の杖は、未だその溶ける時を知らず
生まれたばかりの赤子というものを、初めて見た。
無論、我が子ではない。
若き日に喪った恋を長々と悼んでいるうちに結婚の時期を見失い、惚れたはれたなどもはや己れには無用の長物、いざや氷の黒魔法の真髄を極めんと勉学にいそしみ、気付けばこの歳まで全くのひとり身という体たらく。
もう子供どころではない、孫を腕に抱かなければいけないほどに、いつしか自分もすっかり老いてしまった。
だからこうして見ることが出来るのは、我が子の如く愛情を注いで仕える、主君のもとに誕生した御子だ。
結婚八年目の国王夫妻がようやく授かった、待望の赤ん坊。
聖祖サントハイムが紡ぐ蒼き血の王家、第二十五代目を数える、珠のように健やかな王女。
真っ白な産衣にクレープの具のようにくるまり、ベッドのはじに横たえられて、母親の傍らで盛大に泣いている。
小さな手。小さな足。
小さな顔。
今は糊で貼りつけたように硬くつぶった瞳も、ほんの数刻もすれば開かれるのだという。
二粒のきらめく宝石は、これから何十年ものあいだ絶えず輝き、世界中のあちこちに散らばった愛と悲しみとその軌跡を、ひとつずつ映して行くのだろう。
突然この世に送り出された驚きと、なにより喜びを精一杯表現しようとするかのように、赤ん坊はおぎゃあおぎゃあと泣き続ける。
親指に残り四本の指を重ね、ぎゅっと包んでいる。
丸い、いとけない手。
触れたとたん壊れてしまいそうに、柔らかく、もろく、茹で上げたように赤く染まった肌。
「どうぞ、抱いて下さいませ。ブライ卿」と傍らの母親に言われたが、こんなかよわそうなもの、恐ろしくてとてもじゃないが指を触れることなど出来ない。
だから、見た。
じっと見つめた。
……ふん。
陛下には悪いが、可愛いとはお世辞にも言えんわい。
どこをどう見ても、しわくちゃの子猿にしか見えぬ。
頭だって奇妙に尖っておるし、額にぺったり貼りついた髪の毛に至っては、まだ儂の方が多く生えておろうというものさ。
国王夫婦はさっそく親馬鹿ぶりを発揮し、「おでこの形は、陛下に似ていますわ」「いや、鼻はそなたであろう、フィオリーナ」とやくたいもない会話をうれしそうに繰り返しているが、第三者の冷静な意見を述べさせてもらうと、どっちにも全然似ておらん。
というか、しわくちゃのうえに目をしっかと閉じておるから、いったいどんな顔立ちをしているのか、実際のところまだよく解りゃせん。
しかし、このような奇妙な存在を十月十日も腹に入れて毎日を過ごしておったとは、女人とは儚そうな見かけをしておるものの、そのじつ男など到底かなわぬ、鋼の如き逞しさを持っているのだろう。
その当事者たる母親、国王の妻フィオリーナ王妃の顔色の悪さが、妙に気になった。
長時間に及ぶお産の疲れも見せず、赤ん坊の傍らで気丈にほほえんでいるが、時折顔をそむけてげほげほと繰り返す咳は、ただの産後疲れのためだろうか。
産んだばかりの我が子を、愛しくてならぬように見つめる目には、いつもの彼女にはないなにかの覚悟にも似た光がある気がしたが、それも子供を持たぬ自分の、見当違いの考え過ぎなのかもしれない。
「ブライ卿、この子を抱いて下さいな」
その王妃にもう一度言われて、たじろいだ。
「い、いや、儂は……」
「あなたの手で、生まれたばかりのこの子を抱いてあげて欲しいのです。
この子はきっと、これから数多くの教えをあなたに請うことでしょう。サントハイムの偉大なる黒魔法使い、「氷竜の杖」ブライ卿」
重ねて言われ、王妃たっての頼みを再び断ることも出来ず、ならば渋々、という風を装って赤ん坊の体に恐る恐る手を伸ばした。
首が据わっていないので、うしろ頭を支えて下さい、と言われ、その通りにする。
まったく面倒じゃわい、という表情を作ったが、内心は心臓が喉までせり上がるような恐怖と緊張でいっぱいだった。
小さな赤ん坊を震えながら抱きあげ、胸に抱え寄せる。
柔らかい。
温かい。
温かくて、そして驚くほど軽い。
でも、なによりも重い。
赤ん坊がぴたりと泣きやみ、母親と間違えたのか、乳を探るように胸に顔をこすりつけて来た瞬間、ブライの視界が潤んで熱くなった。
……なんじゃ、これは。
どう見てもしわくちゃの子猿で、ちっとも可愛くなどありゃせんぞ。
それなのに、湧きあがるこの思い。
生まれたばかりの赤子を腕に抱く、今この時こそが、自分の生涯で出会う最も貴い瞬間だという、この思い。
歳を重ねるごとにひねくれ、扱いづらい爺よと陰口を叩かれる事も多い偏屈者のこの心に、湧き水のようにあとからあとからあふれて来る。
愛さなければならないというこの思い。
守らなければならないというこの思い。
そうか、命が生まれるとはこういうことだったのか。
子供も孫もおらなんだから、ついぞ知らなかったわい。
「ブライ卿……?」
感極まるあまり、王妃の怪訝そうな声に問われても、とっさに返答を返すことも出来なかった。
「泣いて、いるのですか?」
とんでもないわ、儂の子供でもなんでもないのじゃぞ、とぶっきらぼうに言いたいのに、鼻の奥がつんと痺れてどうにも舌が回らない。
代わりに大急ぎで、短い言葉を繋いだ。
「……して、このやや児の御名は」
「アリーナです」
「アリーナ?」
母親の言葉に、ブライの横に立っていた現国王アル・アリアス二十四世が、目を見開いた。
「いつのまにそうと決めたのだ?余は知らなかったぞ。
そなた、つい先だってまで、名前はゆっくりと時間をかけて決めたいと申していたではないか」
「ええ、でもとある素敵な殿方に、この名前がいいと背中を押して頂きましたの。
だからこの子の名前はアリーナ。名付け親は、その殿方ですわ」
「何者だ?その殿方とやらは」
眉をひそめる国王に、王妃はくすくすと笑った。
「サランの修道院で出会った、神の子供のように澄んだ蒼い目をした男の子。
わたし、その子と指切りしたのです。どうかアリーナを守ってあげて、って。
彼はきっと約束を守りますわ。だからこの子の生涯にはいつも、強くて優しいとっておきのナイトが傍にあるはず」
「蒼い目の、神の子供……か。ふむ」
サントハイム国王は、小さく肩をすくめた。
「何のことやら見当もつかぬが、聡明なそなたの言うことだ。いずれこの者のことかと解る日が必ず来るだろう。
その時までその存在、しかと心の片隅に留め置くとしよう」
「蒼い目の男など、このサントハイムには腐るほどおりますわい。馬鹿のひとつ覚えの如く神を信じる輩も」
ブライは理由もなく不機嫌になって言った。
「卑しくもこの御子は、二千年の歴史を紡ぐサントハイム王家の直系第一王位継承権者。
神の子供であろうがなんであろうが、どこの馬の骨とも解らぬ男など、儂の目の黒いうちは決して近づけはさせぬ」
「いや、それがだな、爺よ」
アル・アリアス二十四世はブライの手から赤ん坊を受け取り、暢気そうに言った。
「近頃盛んに夢枕に立つのだ。背中に蝶の羽根を生やした、髭の長い不思議な聖人が。
その者が繰り返し、余にこう告げる。
サントハイムの次代の王は、剣を護りし杯を握る手で古き血の鎖を断ち、革新の潮流をこの国に運ぶだろう、と。
もしかすると余の次に立つ国王は、必ずしも王家の血を引く者とは限らぬかもしれぬぞ。
まあ、今からそのような心配をしても、鬼が笑うだけであろうがな」
「背中に、蝶の羽根……!?」
それはまさしく、水晶の泉から現れてこの国を築いたという建国の祖、聖サントハイムのことではないか。
偉大なる聖祖が、代々予知能力を受け継ぐ子孫の夢枕に立つなどという一大事、何故もっと早く言わなんだかとブライは鼻梁を逆立てたが、
当の国王はもうその話題には興味を失ったように、「ばあ、ばあ。おお、アリーナは余にもフィオリーナにも似て、まこと愛らしい赤子だ」と、我が子をあやすのに夢中になっていた。
ブライは吐息をついて、国王の腕の中の赤ん坊に目をやった。
もうとうに泣きやんで、今度は父親の胸をしきりと鼻先で探っている。恐らく、空腹でたまらないのだ。
小さく尖らせた唇はあどけないがひどく利かん気そうで、産毛のような髪は、母親と同じうつくしい鳶色だった。
……アリーナ王女、か。
こうしてじっと見ていると、可愛くなくもないわい。
サントハイム王家の貴きお世継ぎとして、この儂が責任を持って、白百合の如き気品ある姫君に育て上げてみせようぞ。
にしても、アリーナという名前がいいと図々しくも言いおった蒼い目の子せがれとは、いったいどこのどいつなのじゃ?
神の子供のような、などと、王妃殿下もずいぶん大仰な褒めそやし方を。近々サランの修道院に出向き、そやつめの顔をとくと拝むこととしよう。
もしも将来有望であれば、孤児といえども儂の口利きで、神学校に入れてしかるべき教育を受けさせてやらぬものでもない。
サントハイムは人間の出自を愛する国ではない。人間の才能を愛する国であるゆえな。
むう、それではよもや、次の国王が王家の出身でなくとも構わぬと、この儂自身が認めているようなものではないか。
駄目じゃ、駄目じゃ。
陛下のように予知の力を持たぬこの身、先のことなど解りはせぬが、次代の王はこのアリーナ姫が女王として立つか、もしくはその婿が外様の王として立つ。
いずくかの大国から、血筋の良い立派な婿を取るためにも、是非ともしとやかで、たおやかな王女と育てなければならぬ。
そのためにも儂が、残りの生涯のすべてを懸けて、おぬしの面倒を見てやる。
愛してやる。
しとやかで、たおやかに。
アリーナ姫。
そのとき、ブライの沈思に反抗するように、国王の腕の中の赤ん坊の目が前触れなくぱちりと開いた。
こぼれ落ちそうに大きな、はちみつ色の瞳。
まだ据わっていない首を傾け、見えないはずの目が、いかにも不満ありげにブライをじっと見つめ返す。
まるで小さな王女に真っ向から宣戦布告を喰らったかのようで、ブライの背中に冷たい汗がどっと湧いた。
……なんじゃ、この目は。
一年中どんな時もまぶしく照りつける、黄金の太陽の日射しのようないきいきとした目は。
この目の、どこがしとやかで、たおやかじゃ!
見えもしないのにこんな目をする赤ん坊は、おそらくきっと、一筋縄ではいかない暴れ馬の如きお転婆であろう。
生半可な決意を持ってしては、この王女を責任持って世話することなど出来なさそうだ。
もう老齢と言ってもよい歳に差し掛かり、そろそろ隠居も遠くないかと舞台から降りる準備をしかけたが、どうやらまだ自分にもやるべき仕事がある。
すわ、サントハイムのためにこの命を捧げん。
お転婆姫、どんと来い、じゃ。
やがてこの十数年後、小さな赤ん坊が成長した王女と、まだ見ぬ蒼い目の神の子供の神官と三人で、年齢差の大きすぎるおかしな冒険の旅に出かけることなどつゆ知らず、
サントハイムの氷竜の杖、黒魔法使いのブライは、どこか満足そうに両腕を組んで、「ふん!」と居丈高に鼻を鳴らした。
-FIN-