Mots d’amour~愛の言葉~』
地平線が膨れ上がった太陽を飲み込み、夕暮れが青い夜に取って替わる。
車輪を留めた馬車の傍にはテントが張られ、少し離れた木陰で焚火を背に白馬が身体を丸める。
不寝の番を任された仲間以外のほとんどは、既に眠りのうちに沈もうとしていた。
星空を横切るほう、ほう、という調べは、森の賢者と呼ばれる梟の歌。
「よう」
小さな松明を手に歩いていたクリフトは、はっと足を止めた。
「こんな夜更けに、世話焼き神官のお出ましか」
「……そんな所にいらしたのですね」
「なら、どこにいればよかったんだ?」
茂みの手前で木の幹にもたれ、片膝を立ててこちらを見ているのは勇者の少年だった。
「どうして夕食の時間にも、戻って来られなかったのです」
「生憎、腹は減ってない」
「パンを持って来ましたが、お召し上がりになりますか」
「いらない。さっき松の実を見つけたから食った」
「その程度で腹がくちくなるとお思いですか」
「生の木の実を食べたのなんて、ずいぶん久しぶりだ。
松は生えてるが、この辺りにはカエデの樹がないな」
少年はクリフトの声が聞こえないかのように、周囲の木々を見渡した。
「小さい頃、よく飲んだ。母さんが作った砂糖カエデの樹液。
坊や、これはお前の「耐えるこころ」を強くする薬だよ。強くて逞しい心を持つんだよ、と言われて」
クリフトは少年の瞳が宙を浮遊するのを黙って見つめた。
「母さんには悪いけど、どうやら俺の「耐えるこころ」には上手く効かなかったみたいだ。
それとももしあの時、あれを飲んでいたら、俺はどんなことが起きても耐えられたんだろうか。
……なんて考えても、もう遅いよな。全部」
「全ての物事に遅すぎることなどないと、神は仰っています」
「神なんてこの世にいるかよ」
少年は嫌な顔をした。
「もしもいるとしたら、そいつはそこらの枯れ葉よりも役に立たないクズだ」
クリフトが黙っていると、勇者の少年はさっと両手を出して見せた。
「見ろ、クリフト。これがその神様から俺への粋なプレゼントさ」
クリフトは目を見開いた。
剣士らしく関節の大きな、柄跡がある勇者の少年の手。
ふたつの掌から扇状に広がった爪先まで、並べた十本の指がぶるぶると小刻みに震えている。
「戦いで、突きしか打てない理由だ。残念だが今の俺は、まともに剣も握れない」
「……一体、いつからです」
「ずっとだ。村を出てからずっと。
最初に会った姉妹もお前たちも、幸か不幸か剣士じゃないからな。誰ひとり気付かなかった……いや」
勇者の少年は首を傾げた。
「そういえばひとりいたな、なぜかすぐに気付いた奴が。
村を出てすぐに泊めてくれた、えらく口の悪い木こりの爺さんだ。
「風邪引きの餓鬼みたいに情けなく震えやがって、そんなんじゃ斧で板っきれひとつ割れねえだろう!
さっさと治すために、毎日忘れず指を動かしやがれ!」とか言ってたっけ。
始終むっつりした、とにかく無愛想な爺さんだった。庭に墓があったが家族を亡くしたのかもしれないな。
あの爺さんの血を引いてるんじゃ、どうせろくな奴じゃないだろうが」
「何故言わなかったのですか?ライアンさんに」
クリフトは顔を強張らせて言った。
「最初から話しておけば、あのような諍いが起こることもありませんでしたのに」
「とっくに言ってるさ。言えるものならな」
少年は薄く笑った。
「だが、あいつはどう思う?
郷里を捨ててまでほうぼう手を尽くして探し、やっと見つけた勇者は性根が歪んでるだけじゃなく、剣の腕まで失くしていると知ったら。
あれほどの戦士が、地位も名誉もすべてを投げ打って探し求めた人物が、じつは単なるがらくただったと知ったら。
俺はまだ、あいつの志になにも報いていない。そうやすやすと白旗を上げるわけにはいかないんだ」
ならばもっと他にやり方があったろうに、どうして出された手を払いのけるような振る舞いしか出来ないのだ。
天性の天邪鬼のこの少年に言っても仕方がないと思いながら、それでもクリフトは言わずにいられなかった。
「貴方は……、馬鹿です」
「お前にだけは言われたくないね、姫御前狂の悪魔神官」
「突然姿をくらますのは、どうかこれで最後にして下さい。
自分の勝手な行動がどれほど仲間に心配をかけているのか、貴方はちゃんと知るべきです」
「俺はべつに、心配してくれなんて頼んでやしない」
「そうですか、ひねくれ者の勇者様はまだお解りになりませんか。ならばこう言いましょう」
クリフトはついに腹を立て、柳眉を吊り上げた。
「その素直じゃない物言いを直しなさいとおっしゃる御方が、これまで貴方の傍にいらっしゃいませんでしたか。
思ったことはちゃんと言葉にしてほしいとおっしゃる御方が、貴方を見守っていて下さいませんでしたか。
あなたはひとりで生まれ、ひとりで育ったのではない。今この時だって、決してひとりきりで生きているのではない。
あなたを守り、慈しんでくれた方が遺した想いにかけて、貴方はもっと素直になるべきだ。
貴方は決してひとりじゃなく、いつも見守られているということを知るべきだ」
少年の唇が驚いたように小さく開いた。
「お前、どうして知ってるんだ。
その言葉は、シンシアが俺に……」
だが、こぼれかけた言葉はすぐに押し殺された。
震える手が左胸を探って何かの存在を確かめると、勇者の少年は黙って目を伏せた。
泣いているのだろうかとクリフトは思ったが、そうではなかった。
「……なあ、クリフト」
「はい」
「明日から、手の震えがおさまるまで剣は止めて、なるべく魔法を使うことにする。
魔法は精神力で操るものだ。身体の不調は関係ない」
少年はクリフトの方を見ずに言った。
「剣は駄目だが、魔法なら今のところ問題なく使える。むしろこっちは自信があるんだ。
小さな頃から、この世でたったひとり、俺にしか使えないという雷撃の魔法を繰り返し教わって来た」
「ライアンさんには、なんと伝えましょう」
「悪かった。頭が冷えるまで魔法で一から出直すことにする、と反省していたと伝えてくれ」
「そのようなしおらしいお言葉、にわかに信じて頂けるでしょうか」
「もし信じてくれないのなら、皆にばらすぞと言え」
「なにをですか」
「祖国のバドランドに、待たせている女がいるだろうってな」
「な、なんですか、それは?」
「あいつが、寝言でぶつぶつ呟いてたのを聞いた。城下に住む貴婦人らしい。
あいつ、あんないかつい顔して意外と一途なんだ」
「な、なんと性格の悪い……!」
「なんだ、文句でもあるのか。なんならお前のこともばらしたっていいぞ、クリフト。熱烈な片思いに狂うあまり、いい年してまだ人肌知らずだってことを」
「な……!だ、だからそれは違……!」
クリフトが真っ赤になってしどろもどろになると、少年はようやく白い歯を見せて笑った。
緑色のガラス玉のような無機質な瞳を支配していた陰りが、霞となって去る。
だがそれはかりそめの瞬きで、彼を蝕む闇が消えるにはまだ多くの時間が必要だということを、クリフトは知っていた。
それでも、必ず傷は癒える。
人が生きたいと望む限り、希望は必ず傍にあるのだから。
「………さん」
クリフトは勇者の少年の名前を呼んだ。
少年は顔を上げてクリフトを見た。
「なんだ」
「早く帰りましょう。みんなのもとへ。
きっとライアンさんは起きていますよ。貴方になんとか食事を取らせようと、今も手ぐすね引いて待ちかまえているはずです」
「ふん。お前ら、揃いも揃ってほんとにお節介だな」
少年は面倒そうに顔をしかめたが、やがて大きく息をつき、肩をすくめた。
「おいクリフト、やっぱりさっきのは無しだ。反省して、魔法で一から出直すってやつ」
「何故ですか?」
「ただでさえ食欲がないのに、つまらない御託を並べて食い物の喉の通りを悪くしたくない。
やっぱり全部、あいつに話すことにする」
少年は立ち上がった。
「全部正直に、ライアンに話す。この手のことも、剣が上手く握れないことも、……ずっと、誰にもそれが言えなかったことも。
歴戦の戦士ならこんなときどうしたらいいのかくらい、知ってるはずだからな。アドバイスくらいくれるだろ」
そっけなく言い捨てて歩き始めると、なにひとつ心配なことなどないとでもいうように、もうこちらを振り向きもしない。
ぽかんとするクリフトの顔に、しばらくして微笑みが浮かんだ時には、少年の後ろ姿はもうずいぶん先の方にあった。
「たくさん話しましょうね、勇者様。仲間に思いを伝えることを、どうか怖がらないで」
クリフトは呟いた。
「わたしたちはもう、別々の国からやって来た寄せ集めの他人なんかじゃない。
仲間同士たくさんの言葉を交わして、喧嘩してぶつかって、時に傷つけて、また寄り添って、一緒に笑って。
あなただけが持つ心の響きを、あなたの言葉で伝えてほしいんですよ、勇者様……」
痛い時は痛いと、嬉しい時は嬉しいと、辛い時は辛いと、傍にいて欲しい時はいてほしいと。
迷いも怒りも悲しみも、分かち合いたい笑顔も喜びも、かけがえのないその音色に換えてこそ伝わるものだから。
神は視えないあの世にいるのじゃなくて、形を持たぬ命が迷いながら紡ぐ言葉の中にこそ、棲んでいる。
クリフトは歩きだした。
もうすっかり遠くなった勇者の少年の背中を追った。
追いかけながら囁いた。
大丈夫、貴方にもいつか必ず聞こえる。
人だけが与えられたその無限の恩恵こそが、確かな希望と希望を繋ぐ、
あなたへの「愛の言葉」。
-FIN-