再生
雲がざわめく。
白雲が踊り、強くなった風がふたりの髪を衣のようにはためかせる。
「ここは天空城、風に流れしまほろばの城」
クリフトはアリーナを引き寄せて、歌うように呟いた。
「流れ流されて、高きより全てを俯瞰する場所。
神は偉大なる傍観者であり、決してわたしたちに救いの手を差し延べることはない。
何故ならこの世界は、神のものではないからです。
人の命を生きる者がはびこる世界に、神が直接己れの身をもって関わろうとすることは絶対にない。
もしそれが、どうしても必要であるのならば……」
「あるのならば?」
「傀儡を遣わすでしょう。神の代わりをする、だが決して神たりえない存在を」
「それがあいつだと言うわけね」
アリーナは悲しそうに言った。
「ねえクリフト、わたしは最初はあいつが嫌いだったわ。
無愛想で冷たくて、何を聞いてもああ、か、いや、しか言わない。
いくら辛い目にあったからって、あんな振る舞いしか出来ないのは、子供みたいに甘えてるだけだと思ってた。
でも……、でもね」
萌黄色の法衣を掴んで来る手の力が、強くなった。
「今ならようやく、少しだけ理解出来るの。サントハイムのみんなが、お父様やカーラ、大切な人達全てがいなくなってしまった今なら。
だけどわたしは、希望を捨てていない。決して諦めないから、こうして前を向いて歩いて行くことが出来る。
そしてなによりクリフト、わたしにはお前がいるわ」
「……アリーナ様」
「わたし達ふたりはきっと、生涯共にいるでしょう。わかるの」
アリーナはクリフトを見ないようにして言った。
「幼い頃からのこの絆が、一体どんな形を結ぶのか、今はまだ知ることは出来ない。
でもわたしとお前、ふたりの間には決して断てない透明な鎖がある。
迷い立ち止まった時には、わたしはその鎖の存在を確かめて、再び前に進むことが出来るわ。
……でも、あいつの鎖は……」
(無残に引きちぎられて、今も宙ぶらりんのまま)
(決して明けない夜に、置いてけぼりにされたまま)
「アリーナ様」
クリフトはアリーナを抱き寄せ、額にそっと唇を寄せた。
「泣かないで」
「泣いてなんかないわ」
アリーナは急いで首を振った。
「涙なんて何の役にも立たないってこと、わたしはもう知っているもの」
「貴女はいつも、笑っていなければいけません。
もしも、消えない傷を癒すすべがたったひとつあるとするならば、それはあの方を囲む心からの笑顔です。
わたしは信じます。傷は必ず塞がると。
陽光に照らされた氷が必ず溶けるように、あの方を包む笑顔が、いつか必ず全てを癒す、
そんな、ありもしない奇跡の力を信じます」
雲が流れる。
哀しいほど美しい少年の体を半分だけ作り上げた、大気に浮かぶ果てなき天空の世界。
そうだ。
わたしたちに翼はない。
だから進まなくちゃ行けない。ここではない何処かへ、
二本の足を使って踏み締めて、土を、草を、大地を、目の前に広がるこの道を。
「……よう」
その時、ひどく咳き込んだせいか、かすれて喉に絡んだ声が背後から投げ掛けられた。
アリーナとクリフトはぱっと離れると、同時に振り返った。
「なに堂々と、べたべたしてるんだ。やるならもうちょっと隠れてやれ」
そこに立っていたのは、勇者と呼ばれるひとりの少年だった。
猫のように丸められていた背中はぴんと伸び、嗚咽を洩らした唇は引き結ばれ、顔は青白く、目は赤かったが、既に彼は全くいつも通りの自分を取り戻していた。
少なくとも、そうしているように見えた。
「もう……大丈夫なの」
アリーナが尋ねると、勇者の少年は薄く笑った。
「ああ。悪かったな。みっともない所を見られた」
「そんなこと……」
「でももう大丈夫だ。全部吐き出したら、すっきりした」
「そ……」
「いいか、アリーナ。クリフト」
勇者の少年は言葉をかけられるのを拒むように、早口で言った。
「俺の母さんは、たったひとりだ。
あの村で俺を育ててくれて、遊んでくれて、飯を作ってくれて、一緒に眠ってくれた。
名前を呼んでくれた。
いつも笑ってくれた。
そして、もう死んだ。
俺のせいでな。
それが事実だ。それだけだ」
言葉を切ると、少年は唇の片方を小さく持ち上げた。
彼が癖のようにやる、皮肉っぽくて冷たいいつもの笑い方。
まるで霧の向こうのまぼろしを捉えるように、懸命に瞳を凝らしながら、アリーナは思った。
(どうしてだろう)
(笑ってるのに、泣いているように見える)
(緑色の目から、血みたいな涙が溢れているように見えるわ……)
「さあ、食事ですよ。確か昨日も貴方はろくに食べなかった。今日は嫌でも召し上がって頂きますからね」
クリフトが明るい声を上げて、さり気なくアリーナの背を押した。
「そっ、そうよ。今はまだいいけど、それ以上痩せるとあんた、もうまるっきり女にしか見えないわよ」
「馬鹿言え。女にこんなに筋肉があるか。毎日毎日、ライアンにどれだけ鍛えられてると思ってるんだ」
少年はふんと鼻を鳴らして右腕を持ち上げ、珍しくおどけるように力瘤を作ってみせた。
「見ろ」
白い雲の上に、逞しくしなやかな生きた筋肉が躍動する。
「これまでたくさん、たくさん戦って来た。
だからもう俺は、どんな剣だって振るうことが出来る。
この世に存在するなにもかもを、この手で斬ることが出来るんだ」
ねえ、でもそうやって貴方は悲しみや苦しみと一緒に、
喜びや幸せを感じるやわらかな心まで、その手で斬ってしまったの?
思わず口にしかけて、アリーナは慌てて首を振った。
違う。
信じよう。
ありもしない奇跡を。
笑顔が起こす希望を。
「なによ、色白で軟弱な腕。素手での戦いなら、わたしだってそう簡単に負けやしないわ。
なんなら今ここで、手合わせしてみる?ふたり同時にかかって来てもいいわよ!」
「と、とんでもない!わたしは遠慮させて頂きます」
アリーナは笑った。
クリフトも笑った。
この笑顔が消えないうちに、やがて彼らは再び地上へと戻ることだろう。
二本の足で歩く、命息づく大地の世界へ。
ふたりを見つめ、それから風に流れる雲に視線をやり、放射状に輝く光の城をもう一度振り仰いでから、
緑色の瞳を眩しそうに細めて、勇者の少年もほんの少しだけ、笑った。
―FIN―