再生
遠くから、ごうと吹きすさぶ風鳴りの音。
おそらく緩やかに流されているのだろう、石を組んだ光沢のある床がかすかに揺れる。
雲の上にも風が吹いているなんて、ここへ来て初めて知ったことだ。
「言葉にすると、あまりに陳腐に聞こえるかもしれませんが」
クリフトは静かに言った。
「こう考えるしかないのでしょう。それでも、神は彼を選んだのだと。
そしてわたしたちはただ、そんな彼を全力で支えることしか出来ないのだと」
「ねえクリフト、わたしたちが旅に出て、もうずいぶんと月日が経つわ。あいつと行動を共にするようになってからも。
その間にわたしたち一回でも、あいつが心から笑ったところを見たことがあった?
わたしが見るあいつは、いつも魂ここにあらずって顔をしてるわ。
なにかを思い出すのか、時々真っ青になっては、左胸に忍ばせてる汚れた羽根帽子を必死で触ってる。
ライアンにせっつかれなきゃ、満足に食事だって取らない。自分から誰かに話しかけることもほとんどない。
それがあいつよ。選ばれし「運命の勇者様」よ。
わたしたちと一緒にいるのに、本当のあいつはここにはいない。わたしはまだ、本当のあいつを一度も見たことがない。
そんな気がして……ならないの」
アリーナは我に返ったようにクリフトを見つめ、仕方なさそうに笑った。
「ごめんなさい。お前はわたしとは違うわよね。
あいつはなぜか、お前だけにはとても気を許しているみたいだもの。
ふたり並んで行軍したり、夜営の時も一緒にいることが多いし、あんなに無口なあいつがいったい何を話してるんだろうって、いつもすごく気になってたのよ」
「……多分、あの方は無口なのではなく、無口であろうとしているのです」
クリフトは慎重に言った。
「他人に弱みを見せて、そのことで周囲に心配をかけるのを、なにより厭うお方ですから」
「下らないプライドだわ」
アリーナは腹立たしげに言った。
「心配ならもう、十二分もみんなにかけてる。
時には誰かに弱さを見せることも、全てをさらけ出して頼ることも必要なんだって、これほど一緒にいても、あいつには少しもわからないっていうのかしら?」
「………」
クリフトは黙っていた。
わからないんじゃない。
わかっていても、出来ないのだ。
(なあクリフト、俺はどうして勇者なんだろうな。
誰が決めたんだ?そんなこと)
たった一度だけ彼が自分の前で洩らした、身がねじ切れるような悲痛な叫び。
(俺は勇者になんかなりたくなかった。誰にも死んでほしくなんかなかった。
苦しいんだ。身体がばらばらになりそうで、息を吸うのも辛い。
朝日を浴びることも、大地を踏み締めることも、なにもかも、俺だけが今この世界に生きていることが苦しい。
逃げ出したい。戦いたくなんかない。
世界なんか救いたくないんだ!)
それは初めて耳にした、勇者と呼ばれる少年のむき出しの魂の声だった。
だがだからといって、それでも剣を握らなければならない役目を負わされた彼に、共に並んで戦う以外、一体自分達がどんな慰めの言葉を口にしてやれる?
アリーナには解らないだろう。
自分とブライという腹心に守られ、常に温かな毛布のような愛情で庇護される立場にある者に、突然全てを奪い去られ、冷たい空洞にたった独り置き去りにされた者の気持ちは、決して解らない。
だがそれは彼女の罪ではない。
たまたま生まれて来た場所が違う、ただそれだけのことだ。
それでもこの愛しい少女は、持ち前の真っ直ぐさと伸びやかな心で、氷で閉ざされた少年の魂の扉を、諦めずに何度も何度もノックする。