雪降る夜、消えゆく翼
雪が降る。
虚空をひらひらと舞い落ちる雪。
俯瞰で眺めるには美しいが、雪塊が建造物の屋根を潰し、山脈の斜面をなだれ落ちると優美さは一変、容赦なく命を飲み込む恐ろしい氷竜と化す。
それでも心は抑えがたく浮きたつ、愛しい人と過ごす冬の日。
並んで見つめる小高い塔の頂上からの眺望は白く、どこまでも白い。
降りやんで数刻経った雪げしきにようやく陽光が射し、分厚い純白の絨毯を黄色い光が踊った。
辺境の塔にひっそりと暮らし、外界に全く出る事のない自分にとって、雪はただ美しいだけのものでしかない。
魔族をあまねく統括し、遠く離れた居城とここを行き来する彼にとって積雪はさぞ労苦なのだろうが、かと言ってなんの手助けも出来ない自分が軽々しくそれを慮るのも気が引けて、ロザリーはぽつりとこう言った。
「綺麗ですね。ピサロ様」
「ん?……ああ、そうだな」
だが傍らに佇む彼の意識は、目の前の景色にはなかったらしい。
心ここにあらずの返答がそれを物語っていた。
このところ、いつも上の空の彼。
なにかを沈思する姿には深い苦悩が滲んでいて、一朝一夕には答えの出ない、大きな決断を迫られていることが解る。
「ピサロ様」
「なんだ」
それでも、名前を呼べばほほえんでくれる。
「どうした、ロザリー」
振り返って見下ろす紫色の瞳が、自分を映す時だけは優しくなる。
「なんでもありません。呼んでみただけです。ピサロ様のお名前が好きなのです」
だから貴方のその美しい名に、死を司る「DEATH」が冠されるのが嫌なのです。
力を持つがゆえの野望も、魔族の王として虐げられた仲間のために抱く怒りも、全てを捨ててわたしと共に生きて欲しいのです。
でもそんなこと、言えない。
自分の願いひとつひとつが、彼の歩もうとする道と驚くほど相反していて、自分が傍にいること自体が、彼の生きる意味を奪っているのではないかと思うから。
だから自分たちはきっと、世間のごく普通の恋人たちと比べて、ひどく口数が少ないのだろう。
共通する会話がないのだ。
屈託なく話せる話題が二人の間にはない。
わたしの口にすること全てが、彼を困らせる。
「ロザリー。……わたしは」
言いかけて彼もまた、なにかを恐れるように口をつぐんだ。
「なんでしょうか?」
「いや、なんでもない」
「何をおっしゃろうとなさったのですか」
「お前はこの雪のようだな、と言おうとしたのだ」
言葉の意味をはかりかねて、ロザリーは小首を傾げた。
「冷たい、ってことですか?ピサロ様」
ピサロと呼ばれた青年は低い笑い声を立てると、それには答えず窓の外に目をやった。
返事の代わりに華奢な身体を抱きしめ、頭の上に形良く尖ったおとがいを乗せる。
「冷たくはない。お前は温かい。
白く小さく、雪のように儚いが、とても温かいな」
「お寒いのですか?ピサロ様……」
こんなことしか言えない自分が哀しくなりながら、ロザリーはそうするしかなくて広い胸に身をうずめた。
本当はもっと聞きたい。
(何を苦しんでおいでなのですか?なにを、決めかねておいでなのですか?
これからやろうとなさっていることは、そんなにもあなたから笑顔を失わせてしまうようなことなのですか?
わたしは……わたしは、少しもあなたのお力になれないのですか?)
でも、聞けない。
聞けば、これまで目をそむけ続けた決定的な何かを彼の口から引き出してしまいそうで、怖くてどうしても聞く事が出来ない。
ロザリーはピサロを見上げた。
月光の滝のように見事な銀髪を、深紅色の絹布で留めている。
解けゆく雪を見つめる横顔は冷たく青ざめ、妖しいほど美しい。
だがその冴え冴えと研ぎ澄まされた美貌は、言いようもなく不吉なものを感じさせた。
(こんなにも美しいお方が、この世に他にいるかしら)
ロザリーは思った。
(もしもそんな人がいるとしたら、その方もきっとピサロ様のように、ふたつに裂かれて苦しむ心を抱えている人だわ)
選ばれし者としての運命に殉じなければならない自分と、その轍から解放されたくてもがく自分。
それを救ってあげられるのは、誰なのだろう。
蝋で作った翼で飛び立とうとする、健気で無知蒙昧なイカロスに、「飛ばないで。その翼は溶けてしまうんだよ」と教えてあげられるのは一体誰?
少なくともそれは、籠の中の鳥であるわたしじゃない。
ロザリーは泣いた。
出会う前から彼が魔族の王に選ばれていたことが哀しくて、声もなく泣いた。
だが、瞳をこぼれるなりルビーに変わる彼女の涙は温度を持たず、静かな嗚咽はピサロの耳には決して届かなかった。
ピサロは言った。
陽光に照らされて溶けてゆく雪を長い間見つめた後、なにかを振り切るように言った。
彼女の涙に気づかず言った。
壊れ物のようにもろく、だが大切でならないものを腕に抱いて、言うべき言葉はそうじゃなかったというのに。
「ロザリー、わたしは人間を滅ぼすことに決めた」
そして、やがて彼女の命もまた、雪のように溶けてこの地表から消えた。
彼女が最期に流した涙が想いとなり、想いが言葉となり、言葉が夢となってもうひとつの苦しむ魂のもとを訪れるのは、こののち間もなくのこと。
「………!」
夜まだ深き闇の中、勇者と呼ばれる少年は鋭い叫び声をあげて、イムルの宿の寝台から起き上がった。
はっ、はっと荒い息を整えると、こめかみを伝い落ちる大量の汗を掌で拭う。
急いで左の懐に手を押し込み、羽根帽子の柔らかな感触に心を落ち着かせると、動悸が少しずつおさまっていく。
交互に懐に差し入れ、温まった手を引き出したその時、少年は胸の前に並んだ十本の指を見た。
壊れた時計の針のように小刻みに震え続けて、これまでまともに剣すら握れなかった両手を凝然と見た。
震えが消えている。
なにかが自分に、得体のしれない力を与えている。
それが今見た夢のせいだとは思いたくない。
他人の傷口を突き付けられて、ほら、痛いのはお前だけじゃないんだよと納得させられるには、あまりにもまだ自分は弱いから。
少年は寝台から降りると、安普請の宿の小さな窓から空を見上げた。
降り落ちる雪。
白いのに紅く見える。
喪われた命が流すルビーの涙が、少年に向けばらばらと音を立てて降り注ぐ。
「……どうしてだよ」
窓の桟に手を掛けていた勇者の少年の体が、力無く床に崩れ落ちた。
「どうして俺なんだよ。どうして、こんな夢を見せるんだよ。
なにもかも、俺の役目なのかよ。全部、俺ひとりが片をつけなきゃいけないのかよ。
俺は………なんのために」
だが悲鳴を上げる魂とは逆に、汗の滲んだ掌は確かな感触を取り戻す。
長い夢から目覚めた彼の手は、これまでになかった力をたたえて剣を握ることだろう。
少年は思う。
あれほど決意した復讐のための時間は、たった今唐突に終わってしまった。
どんなに心を凍らせても、この目で見てしまったものを見なかったことには出来ない。
それでも俺は、戦う。
たとえそれが、遥かなる祈りが見せたまぼろしの夢に背くことになるとしても。
白く小さなかけらはひとひらずつ地に落ちると、湿った木造の宿の部屋を、物音ひとつない静寂で覆う。
窓から忍び込んだ雪が少年の頬に触れた途端、辺りの景色が溶暗した。
この夜、一片の蝋の翼はあとかたもなく溶け、新たなる運命の歯車が回り始める。
避けられない時が刻々と近付いて来る。
最後の戦いを前に、静かに雪が降る。
-FIN-