星を視る者、漂う者


とっぷりと夜も更けた頃、すべての明かりが落とされ静まり返った宿の扉をそうっと押し、こっそり外に出る。

そろりと振り返っても、誰もいない。

深夜の秘密の脱出は成功だ。

風はさっきより幾分おさまっていたものの、冷え込みは一層厳しく、ミネアは勇者の少年が数刻前に投げ渡してくれたローブの襟元を、手でしっかりと押さえた。

遠くに誰かの笑い声を聞き、かすかな恐怖に襲われて辺りを見回す。女ひとり、あてどもなく街路を歩きまわって探すには、夜の港町は物騒すぎる。

だがきっと、彼はそう遠くには行っていない。

強い予感にも似た確信が、ミネアの胸にはあった。

宿の周りを一巡し、海辺の桟橋に続く石畳をそろそろと歩く。水平線は漁師たちの操る漁船のカンテラで煌々と照らされ、決して暗くはない。

徐々に細くなっていく道を用心深い足取りで下り、ミネアは砂浜へ出た。

(いた……!)

波打ち際から飛びだした大きな桟橋の横に、漁師たちが採った魚を運搬するはしけが何艘も繋がれている。

その傍らの小さな桟橋にぽつんと腰を下ろして、海を見つめるひとつの人影があった。

時折手元に目を落とし、手を動かしているのは、もしかしたら彼が得意としている木彫りを作っているのかもしれない。

旅の野営中もいつのまにかいなくなり、皆で探し回ると、離れた木の袂に座って木切れを彫っていることがよくあった。

小さなククリナイフから紡ぎ出される品々のあまりの精巧さに、全員で言葉を失くして驚き、トルネコは半ば真剣にぜひこれを売りに出しましょうと提案したが、彼は肩をすくめ、興味なさそうにこう言った。


こんなことが出来たって、いざという時、なんの役にも立ちやしねえさ。


ずっとわからなかった。あの時、彼が言った「いざという時」とは、いかなる時のことだったのか。

全てを失ってしまった、あの時か。それとも復讐の戦いに身を投じ、憎い敵の身を剣で切り裂いて屠るあの時か。

決して止まらない時間が無慈悲に刻み続ける、今というこの時か。

ミネアは足を止め、さっき確かに身を委ねたはずの、勇者の少年のわずかに丸められた背中を見た。

少年と青年のはざまを行き来する、成長過程の17歳の男の広くなりかけた背中。

ひとりきりでいると、どうしようもなく孤独に見える。

彼はここにいるのに、ここにいない。

世界を救うべき勇者の少年は、いまだに「いざという時、何も出来なかった自分」の呪縛に囚われ、もがき続けている。

(それでも)

ミネアは呟いた。

(あなたはあなた。他の誰でもない。

空を漂う、あなたというたったひとつの星の光は、決して消えない)

「勇者様」

ミネアは明るい声を作り、勇者の少年の背中に向かって歩き出した。

少年は驚いたように振り返った。

「ミネア」

「こんなところで、おひとりでなにしてるんです?飲んだ夜は早く寝ないと体に毒ですよ。

さっきは、どうもありがとうございました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

緑の瞳の少年は手にしていたナイフと木片を懐にさっとしまい、「べつに、迷惑じゃない」と言った。

「お前、酒はもう抜けたのか」

「うーん、まだですね。いまだに目に映る世界が上下さかさまにひっくり返ってます」

本当はとっくに酔いは醒めていたが、そう言ったほうが気楽に話せる気がして、ミネアは陽気に笑ってみせた。

「勇者様には、とんだ失態を見せてしまいました。わたしはもう、これからあなたに絶対に頭が上がりませんわ。

この借りは旅の間に、必ず返します。だからどうか、このことはみんなには秘密にしておいて下さいね」

「わざわざ秘密にしなくても、俺は他人の行動を逐一人に話す趣味はない」

「年下のくせに、かっこつけちゃって。あなただってお酒の力を借りてでも、胸に溜まった悩みや迷いを吐き出したい時があるでしょう。

困ったことがあるなら、いつでも言って下さい。幸せなことにあなたの旅の仲間のひとりは、腕利きの占い師なんですよ」

言われて、勇者の少年は戸惑うような表情を浮かべたが、やがて低い声で言った。

「……ミネア」

「はい」

「占星術師って、古代語で「astrolobo」って呼ぶんだって、知ってるか」

ミネアはなにを言われたのかと一瞬きょとんとまばたきしたが、頷いた。

「……星を視る者、という意味ですね」

「死んだ人間の魂は皆、星の海に還る。

そこで星とひとつになり、全ての記憶を手放し、星に選ばれた新たな器を得て、再びこの世に戻って来るんだ。

だったらお前は、この世で器を失った魂を……、姿を失くして星になった者の声を、聞くことが出来るのか」

「出来ないことはありません」

ミネアは答えた。

「通常の占星術とは意趣を異にしますので、占い師によってはそれが難しい者もいるでしょう。

ですが、わたしは交霊術も学んでいます。一般の方には行っていませんが、死者の魂を降ろし、声を聞くことが必ずしも不可能なわけではありません」

死者、という言葉に、勇者の少年はわずかに臆したように顔を硬くした。

「誰か、声を聞きたい方がいるのですか。

この世での器を既に失い、星に還り魂のみの姿となっても、なお」

「ああ」

勇者の少年は珍しく素直に頷き、自嘲気味に薄く笑った。

「いる。声が聞きたくて、顔が見たくて、頭がおかしくなっちまうくらいどうしても会いたい奴が。

……けど、もういいや。交霊術なんて反則技に頼るのはやっぱり止めた。

どうせいつか、俺もあいつのところへ行くんだ。そんなに焦らなくてもいい」

それきり少年はぴたりと喋るのを止め、黙って凪いだ夜の海を見つめた。

ミネアが傍らにいることをもう忘れてしまったかのように、追憶を茫漠とさまよう緑の瞳。

もしかしたら、ほんとうは彼はそれをわたしにこっそり頼みたくて、今夜ふたりで酒を飲みに行こうと誘ったのかもしれない。

失われたたましいの声を聞くために。

今はもう失われてしまったまぼろしの星の光を追いかけ、かつて傍にあったはずの輝きに必死で目を凝らすために。

ミネアはふと、勇者の少年の懐から覗く、作りかけの木彫りの人形に目をあてた。

驚くほど緻密に彫られた、花束を抱いてほほえむ少女の姿。

耳の先が尖っているのは、精霊エルフ族だろうか。きめ細かい隆起を描いたほほえみは、まるで命が宿っているかのようにあどけなく生き生きしく、勇者の少年の少女への物言わぬ愛情が、滲むようだった。

ミネアは人形から視線を離し、空を見上げた。

冷えた夜空を覆う満天の星が、薄雲に覆われて蛍火のように光る。


星の海はそこにいつもある。




命の器を失くした魂が双眸を青白く光らせて、星の海からわたしたち生者をじっと見降ろしている。






「勇者様、食べませんか。姉さんにもらった星飴です。甘いものは元気が出ますよ」

ミネアが蓋を開けたガラス瓶を手に乗せ、星形の小さな飴を掌ごと差し出すと、勇者の少年は一瞬顔をしかめた。

だが、そっと手を伸ばして小さな星の粒を掴み取り、無造作に口に放り込む。

ミネアが「おいしいでしょう。おかわり、どうぞ」と笑うと、勇者の少年無垢な様子で頷いて新たな飴を受け取って食べ、はっとして顔を赤らめた。

迂闊なところを見せてしまったというように、急いで仏頂面を作ると、飴を頬張り過ぎてすっかりくぐもってしまった声で呟いた。

それがミネアをさらに笑わせた。



「星は食うものじゃない。あれは視るものだ。空を漂うものだ。



それに俺は……、


甘いものは、嫌いだ」





-FIN-


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