星空に見つけたもの
「なにをご覧になっているのですか、クリフトさん」
造船技術を世界に誇るコナンベリー製キャラベルの舳先が、時計の振り子のように左右対称な軌跡を描いて波を切り分ける。
潮騒が楽器の調べにも似て凪いだ水面をたゆたい、海風をセイレーンの子守歌で彩る。
夜の海。
ある種の魚がそうであるように、船も進行しながら眠りに着く。
甲板で夜空を見上げていたクリフトに、ミネアは歩み寄って声を掛けた。
「まだ起きていらしたのですね。他の男性陣はとっくに高鼾ですよ。
今日の不寝番はわたしです。どうぞ、部屋でお休みになって下さい」
クリフトは振り返って微笑んだ。
「ここはもう、北のガーデンブルグ領海。夜はずいぶん冷え込むようになりました。
女性の身に船上番は毒です。よければ今夜はわたしが代わりに、このまま」
「駄目です」
ミネアはクリフトを軽く睨んだ。
「そうやって皆の不寝番を代わってあげては、翌日いつも疲れた顔をなさっていますわ。
複数で旅をしている以上、特定の人物にのみ負担がかかるのは決して正しいことではありません。
それが優しさだとお思いなら、とんでもない勘違いです」
「厳しいですね、ミネアさんは」
「わたしは正当な意見を呈しているだけですわ。
見張りは男女かかわらず、全員平等に順番に行うべきです。
だから今後はもう決して、皆の甘えた我が儘を聞き入れないで下さい。特に、姉の。
……それに」
ミネアの眉が微かにくもったが、そこに余計な感情を差し挟まないよう注意深く続けた。
「貴方がアリーナさんの不寝番を代行する回数が、この所あまりに多すぎるのではないかと」
「申し訳ないが、それは代行とは言わないのですよ。ミネアさん」
クリフトは笑って首を振った。
「臣たる者はあるじの手足です。わたしはあのお方の手となり足となり、全ての任に当たっている。
それに家臣が自らの眼前にて、貴きあるじにうかうかと見張り番などさせられるわけがありません」
「ですがそれでは、他の仲間達の不満や批判を買うことになりはしませんか」
「どのような批判も甘んじて受けるつもりです。わたしはその全てに、今と同じ答えを返すでしょう。
わたしは皆の仲間であるけれど、決してあのお方の仲間ではない。
わたしはあのお方の手であり、足なのだと。
それに皆さんも諦めて下さったのか、これについてあまり辛辣なご意見を戴くことはなくなりましたよ」
確かにそうだ。クリフトがあからさまに「主人絶対」を貫くことに、最初は不平を並べた仲間達も、いつしかなにも言わなくなった。
皆、気付いたからだ。
それは主義主張などと生半可なものではなく、クリフトというひとりの人間の存在意義。
特別扱いをことのほか嫌うアリーナが、なにも言わずにそれを受け入れるのは、彼女も気付いているからだろう。
泳ぎを止めると死ぬ魚がいるように、船が海面を滑らないと腐るように、彼はアリーナの手足でいなければ生きる意味を失うということを。
「わたしは主君を持ったことがありませんから、貴方の鋼の忠誠心は正直、理解出来ません」
ミネアは呆れたように肩をすくめた。
「死ねと命じられれば迷わず死ぬという盲目的な献身が、正しいとはどうしても思えないのです」
「いついかなる時でも、死ぬわけではありませんよ。わたしだって命は惜しい」
クリフトはミネアの肩を両手でぽんと軽く叩いた。
それがどんなに心をかき乱すか全く気付いていない、可愛い妹に対するような気安い仕草。
「大切なのは、いつでも死を選べる忠誠心ではなくて、そう思えるほどの主君に出会うことではないでしょうか。
そして、わたしはもう」
「出会ってしまったというのですか?」
ミネアは思わず語気を強めた。
「それがたまたま、女性としても愛を注ぐアリーナさんだったというわけなのですか?
貴方は恋心と忠誠心を混同しているのではありませんか?
あるじの代わりになにもかも引き受けることが、真の忠誠だと胸を張って言えるのですか?」
「……ミネアさん?」
クリフトが戸惑ったように首を傾げたので、ミネアははっとした。
「ご、ごめんなさい」
「どうやらわたしの勝手な振る舞いは、知らぬ間にずいぶんと貴女を困らせてしまっていたようですね。
規律平等を重んじるべき集団の旅にあって、このような独断を押し通す無体を、本当に申し訳なく思います」
沈痛な面持ちで頭を下げるクリフト。
真摯な蒼い瞳にこの胸の内を余さず伝えることが出来たら、どんなに楽になれることだろう。
違う、そうじゃないの。
そうじゃなくて、わたしは……。
だが弁解は、隠し続けているひそやかな想いの告白に他ならず、ミネアは俯いて首を振った。
「……ごめんなさい」
「謝るのはわたしのほうです。きっとわたしは、皆に何千回謝っても許してもらえぬ大馬鹿者なのでしょう。
でもね、ミネアさん。どんなにわたしが努力しようとも、あのお方のなにもかもを引き受けることなど決して出来ないのですよ」
クリフトはミネアの傍らに並ぶと、頭上に広がる夜空を見上げた。
「かの父王陛下とサントハイムの民の神隠し以来、あのお方はまったく眠れぬようになってしまわれた。
今はわたしが催眠呪文を掛け、毎夜なんとかお休みになられているが、蓄積した疲労が癒えているとは到底言い難い。
皆の前では明るく気丈に振る舞われ、戦闘でも以前と全く同じ武勇を発揮されている。
これ以上あのお方に、御身を酷使させる訳にはいかないのです」
「アリーナさんが……?気づきませんでした」
ミネアは驚いてクリフトを見た。
「どうして、もっと早くおっしゃって下さらなかったのです」
「それをあのお方は望まれていません。それに悲しむということは、皆を失くしたという事実を認めることになる。
わたしたちは希望を決して捨てない。だからあのお方は、近いうちに必ず眠れるようになってみせると、わたしにお約束して下さった。
ただ、睡眠という生物の繊細な営みにとって、眠るぞという意気込みは悲しいほど逆効果をもたらすのです。
寝よう寝ようと思えば思うほど、あのお方の目は虎目石のように冴えて、なかなか寝つくことが出来ない」
「だからアリーナさんにラリホーを掛けて、代わりに貴方が不寝番を?」
「さっきも言ったけれど、代わりではないのですよ。わたしはあのお方の手足なのだから」
強情に繰り返すクリフトに、ミネアは思わず笑いを誘われた。
「やはりわたしには、忠誠心深き臣の所業とは違うように思えますわ。
貴方は恋しいおもいびとの不調を必死で助ける、単なるひとりの男性です。クリフトさん」
「そ……」
そんなことはない、と否定しようとして諦め、クリフトは深々とため息をついた。
「……そうなのかも、しれないな」
「やっとお認めになりましたね」
「ミネアさんの千里眼にはどうあっても敵いません。
じつは、わたし自身もよく解らないのです。これは忠誠心なのか、それとももっと個人的な感情なのかと」
「心配しなくても大丈夫ですわ。いつか避けられない選択肢が突き付けられる時、答えは自ずと明らかになるでしょう。
だったらその時まで、疑念をとことん突き詰めてみてはどうですか。
家臣として、ひとりの人間として、己れの執着の原因は恋なのか忠誠なのかを」
クリフトはミネアを見つめると、足元に視線を落として小さく笑った。
「胸にこたえますね。その言葉」
「仮にも占星術師たる者、いつも口当たりの良いことばかり言うわけにも行きませんもの」
「では貴女のおっしゃる通り、ひとりの人間としてせいぜい悪あがきするとします。
いつか、避けられないその時が来るまで」
クリフトは首に巻いた橙色のストールを外すと、ミネアの両肩にそっとかけた。
「船上は寒い。どうか、風邪を引かないように」
「……ありがとうございます」
「こちらこそ、わたしの下世話な話に耳を傾けて下さって感謝します。お陰でずいぶん気が楽になったようだ。
貴女が友人でよかった、ミネアさん。貴女にもそう思って頂ければ幸いなのですが」
いいえ、わたしは貴方の友人でよかったなんてこれっぽっちも思っていません。
だが痛切な叫びは音に乗せて吐き出さない限り、決して彼に聞こえない。
「もちろん、わたしもそう思っていますわ」
ミネアは渇いた声で同意した。
「こうしてなんでも相談し合って、時に厳しくぶつかり合って。
わたしたちは仲間である以上にかけがえのない友人です、クリフトさん」
クリフトは嬉しそうに笑顔を見せて頷いた。
「美しい夜空ですね、今夜は。星を愛でるにはやはり冬空です。
今わたしたちがこうして目にする光は、実は何百億年も昔に放たれた輝きだと聞きます。
つまりわたしたちは遠くの星を眺めながら、かつての光を振りかえっていることになる」
「共に未来を見つめることはないけれど、過去の輝きを慈しむことなら出来るのですね。わたしたち」
「え?」
「なんでもありません。さあ、早く貴方の愛しい方の所に戻って。ラリホーの眠りは夢を誘います。
もしも今、彼女が不幸な夢にうなされていたら大変でしょう?」
聞くとクリフトは真顔になり、にわかにそわそわし始めた。
もう夜空などどうでもいいようにそっけなく視線を離すと、「では、失礼します。番中お気をつけて」と踵を返し、急いでこの場を去ってしまった。
残されたミネアはひとり甲板に立ち、もう一度夜空を見上げた。
「……本当、美しい星空だわ。雫になって落ちてこないのが不思議なくらい」
知っていますか?クリフトさん。
星で最も熱い光を放つものは、赤や金色ではなく蒼色をしているのですよ。
わたしには貴方の瞳は熱すぎて眩しすぎて、そして遠すぎる。
それでも空の彼方の煌めきにどうしようもなく惹かれるように、わたしは飽きずにまた貴方を見上げるのでしょう。
眠れない夜の供に星の光と、かぐわしさを纏った友人の置き土産がひとつ。
波に抱かれて眠る人魚のように両肩を抱えて、ミネアは冷たくなり始めた頬を橙のストールにそっとうずめた。
-FIN-