星を視る者、漂う者
あれほど騒がしかった酒場は水を打ったように静まり返り、うずくまって痛みに呻く男以外、誰ひとり声を発する者はいなかった。
緊迫した沈黙が立ちこめ、呆然とこちらを見つめる男たちの喉が、慄きにごくりと鳴る。
「行くぞ、ミネア。一番奥のテーブルだ」
勇者の少年はなめらかな動作で剣を収め、なにごともなかったようにミネアを振り返った。
「お前、俺の前を歩け。そのほうがいい。
一度歩き始めたら、テーブルに着くまで立ち止まるな」
「は……、はい」
もはや誰も、ふざけて声をかけることも、冷やかしの指笛を鳴らすこともなかった。
ミネアがおずおずと歩くと、皆恐れたように椅子を引き、体を反らし、人垣が左右に割れて道が出来る。
(すごいわ)
たったひと振りの柄の一撃で、海千山千の荒くれた船乗りたちには、少年の強さのほどがしかと解ったらしい。
ミネアの三倍もあろうかという大男たちが、揃って怖れをなしたように目を伏せ、体を丸めてうつむいている。
まるで、視線を合わせると罰せられる、身分の高い王侯貴族にでもなったみたいだ。
至極すんなりと、ミネアと少年は奥のテーブルに辿り着き、黙って向かい合うように椅子に腰かけた。
それを機に、酒場全体に漂っていた硬い空気は薄れ、再び賑やかな喧騒が戻って来る。
吟遊詩人も気を取り直してフィドルを抱え、陽気なマドリガルを歌い始めた。
「あの……どうも、ありがとうございました。勇者様」
ミネアが頭を下げると、勇者の少年は美しい眉間にかすかな皺を寄せた。
「いきなりなんなんだ、あいつら。言ってる意味がよく解らなかった。
俺たちを見たとたん、どうしてよってたかってあんなに騒ぎ出したんだ?
売るだの買うだの、いくら出せばいいんだ、だの……俺たちふたりのことを、行商の薬草売りとでも思ったのか」
ミネアは呆気に取られた。
「い、いえ。そうじゃないと思いますわ。
その……恐らくあの人たちは、わたしとあなたのことを、酒場を回って客を取り、春をひさぐ商売の者だと……」
「ハルヲヒサグ?」
少年はさっぱりわからないというように、ますます険しい顔をした。
「知らないんですか?」
ミネアは素直に驚いて、はっと顔を赤くした。
「そ、そりゃわたしも、じゃあなにをするのかと言えば詳しくは知りませんけれど、モンバーバラで暮らしていましたから、そういう職業があることくらいは」
「………」
ミネアにそう言われ、勇者の少年はむっとしたように唇を引き結び、ぴたりと黙り込んでしまった。
どうやら自分が山奥の田舎村出身だから何も知らないのだと、揶揄されたように感じたらしい。
(……そうだわ。知らなくて当然なのよ。
この方は勇者として、17歳までずっと、人里離れた村を一歩も出ずに育てられた。
言ってみれば、世間知らずのけがれない子供のようなもの。彼にとって世界は見たことのない巨大な迷路で、目に映るものすべてが、大いなる謎と不思議に満ちている。
無口なのは、ただ無愛想だからじゃない。知らないことがあり過ぎて、それをうまく言葉に置き換えることが出来ないんだわ)
「あの、勇者様」
ミネアが呼ぶと、勇者の少年は答えずに目だけでミネアを見た。
「心配しないでください。あの男の人たちは、決して悪い人じゃありません。ただ、すこし勘違いをしてしまっただけなんです。
だからもう怖くありませんし、もしもまた、なにか解らないことを言われるようでしたら」
そう言って、右手を丸めて顔の前に振り上げる。
「今度はわたしが、バギクロスをお見舞いしてやりますわ。お店がまるごと吹っ飛ぶくらい、特大のやつを」
勇者の少年はびっくりしたように目を見開いた。
「ね。だから大丈夫です。せっかく来たんですもの、楽しくお酒を戴きましょう。
わたし、なんだかお腹もすいてきました。二度目の遅い夕食も付き合って下さいね、勇者様」
ミネアが笑う。
美しい少年はなにも言わず、返事の代わりに緑色の瞳をかすかにほころばせた。