月の番人


ふくろうのほう、ほうという鳴き声が四方から聞こえて来る、深い森の夜。

ぱちぱちと薪が爆ぜる心地よい音が、漆黒の宵闇に響く。

腹を空かせた獣たちのうごめく足音。侵入者を警戒するコウモリの羽音。音の饗宴。森は、夜のほうが騒がしい。

時は深夜を回り、そばに停めた馬車の中では毛布にくるまった仲間たちが、既にぐっすりと眠りについていた。

焚き火を囲む今夜の不寝番は神官クリフトと踊り子マーニャ、そして戦士ライアンの三人だった。

本来はふたりのはずだったが、マーニャが静止も構わず早々に酒を飲み始めてしまったため、急きょライアンが加わることになったのだ。

「大体さぁ、クリフト」

マーニャが酒瓶を片手に、ろれつのあやしげな声を上げた。

「おさななじみって兄妹感覚から抜け出せないから、じつのところ恋には落ちにくいものだけど……、

一体あんたたちは、どうしてこうなっちゃってるのかしらねぇ」

どうしてもなにも、そんなの決まっているではないか。

わたしは出会った瞬間から一度たりとも、あのお方を妹のように見たことなどない。抜け出せないもなにも、はなから兄妹感覚など持ち合わせていないのだ。

しかしそのような思いはおくびにも出さず、クリフトは人差し指を唇にあてて、

「声が大きいですよ、マーニャさん。皆が起きてしまいます」と小声でたしなめた。

「こうなっちゃってるとは、どういうことだ。

おぬしたちはどうなっているというのだ」

傍らでライアンが面白そうにクリフトを見た。

「拙者は生来の粗忽(そこつ)者ゆえ気づかなんだが、おぬしとアリーナ殿はもはや、君臣を超えた間柄であるのか」

「まさか」

クリフトはため息をついて首を振った。

「マーニャさんはすぐにこうやって、わたしをからかうのです。

あらぬ邪推はアリーナ様の名誉を傷つけますゆえ、どうかお控え頂きたいともう何度も」

「あらぬ邪推じゃないでしょ。アリーナちゃんを見るあんたの両目はいつだってハートマークだし、あの子のほうもまんざらでもなさそうだわ」

「ばっ、馬鹿な」

クリフトのほほは真っ赤になった。

「お願いですから、下世話なご冗談にわたしはともかく、アリーナ様を巻き込むのはおやめ下さい」

「だーかーら、あたしは事実を語ってるだけなのに、どこが下世話なのよ。

まったくあんたって人は、ほんっとに堅物一辺倒なのねぇ」

つまらなそうにふたたび酒を煽ろうとしたマーニャの手を、ライアンがさりげなく掴んで、もう片方の手でそっと瓶を取り上げた。

「明日も早い。もうそのへんにしておくがよかろう」

「なによ、ライアンったら。返して」

「おぬしの両まぶたは今にもくっついてしまいそうだ。眠くてたまらぬのだろう。

なぜそのように夜更けまで痛飲する。さてはまた、ミネア殿と喧嘩でもしたか」

図星なのか、マーニャはふんとそっぽを向いた。

「あの子も、クリフトと同じくらい堅物なのよ。こうと決めたら、あたしの話なんて一切聞きゃしない。

一見優しげで真面目な人間ほど、じつはものすごく頑固で意固地なんだわ。他人の言うことなんて気にしないから、イライラしちゃう」

「それでマーニャ殿は、ミネア殿とよく似た雰囲気を持つクリフト殿に八つ当たりしていたのだな」

「なぁによ、いけないの?八つ当たりは女の特権でしょ。

まったく、ミネアのやつったら……」

マーニャは腹立たしげに言い捨てると、膝をかかえてその上に顔をうずめてしまった。

ライアンとクリフトがぴたりと黙り込む。

いっときの静寂ののち、足先まで垂れた彼女の長い髪のすきまから、すうすうと規則的な寝息がこぼれ始めた。

「……眠ったか」

「そのようですね」

ライアンは肩をすくめた。

「さても、クリフト殿。

おぬしは常日頃絶えずあちらこちらから女性に絡まれて、じつに難儀なことであるな」

「あちらこちらからということは、ありませんが」

クリフトは苦笑した。

「わたしは幼少より女人禁制の神学校で学び、そのまま教会に入りましたので、女性がたと寝食を共にするのは、この旅が初めての経験なのです。

異性とどう接すればよいのか、どんな言葉を返すのが正解なのか……。

正直言って、戸惑うことが多いのは事実です」

「拙者とてそうだぞ」

ライアンはほほえんだ。

「バドランドの王宮戦士の寄宿舎は、ほぼ男のみ。

ごくまれに女戦士もいるにはいたが、男勝りの屈強な猛者たちばかりで、マーニャ殿のようにいかにも女性(にょしょう)、という立ち居振る舞いの者はなかったのでな。

しかし、クリフト殿。どんなに女性に囲まれて生きたとしても、しょせん我れら男に彼女たちのことなどわかるはずがない。

おなごとは月のようなもの。日によって丸く満ちたり、欠けたりする。時には新月となりまったく見えなくなる。理解しようとしても無駄なのだ。

摩訶不思議な女人という存在を理解することなど、誰にも決して出来はせぬ」

「それでは……一体どうすれば」

「簡単なことだ。まさに月と同じように考えればよい」

「と、言うと?」

「すこし離れたところから、黙って静かに見守るのみ」

クリフトはびっくりしたように目を見開き、ふふっと楽しそうに笑った。

「なんの解決にもなっておりませんが」

「解決しようとしなくてよい」

ライアンはぐっすりと寝入った様子のマーニャを、ほほ笑みを含んだ瞳で見た。

「月は、放っておいても勝手に丸くなる。

そうして安心するやいなや、今度は次第に欠けていってしまう。同じかたちにとどめることは決して出来ぬ。

それは常に変動する、女人という尊い生命の営みなのだ。

満ちようと欠けようと、美しく輝いていることに変わりはない。我れら愚かな男どもは、その崇高な営みに敬意と賞賛を送る以外、すべきことなどないのだ」

クリフトは感じ入ったようにライアンを見つめた。

「……金言、学びとなります」

「うむ」

しかつめらしくライアンは頷くと、くっと破顔した。

「そう、まともに受け取るな。拙者はおぬしに学びを与えられるほど、女人に詳しいわけではないぞ」

「そうはおっしゃいますが、まるで心理学の権威のごときすぐれた分析、深く敬服致しました」

クリフトは力が抜けたように、ふうっと長く息を吐いた。

「女人は、常に変わりゆく月……。

まさしくそのように捉えれば、今まで感じた数々の疑問にも、答えが見出せる気がします。

ついさっきまでにこにこと笑っていたのに、ものの数分で「お前なんかきらい」とおっしゃられたり、怒ったかと思えば今度はしくしくとお泣きになられ、

わたしはまったくどうすればいいかわからず、おろおろと手をこまねいては周りをうろつくほかありません。

でも確かに、時間が経ちさえすれば姫様は徐々に落ち着いて来られ、最後はお優しい笑顔を向けてくださるのですが……、あっ」

ひめさま、と相手を断定してしまったことに気づき、クリフトは真っ赤になった。

「い、いえ、その……」

「最後に笑ってくれるのであれば、それでいいではないか。

アリーナ姫が機嫌をそこねている間、おぬしはとくになにもせずそばにいるのであろう?」

「は……はい。なにをして差し上げればよいのか、わからなくて」

「それがまさしく、かたちうつろいゆく月を静かに見守るということだ。

おぬしは心やさしい月の番人だ。悩む必要はない。

これまでもこれからも、変わることなくそのままでよい」

温かみのこもった声に胸を打たれ、クリフトは思わず「ライアンさん……」と目を潤ませた。

「なんとお心優しく、深い慈愛に満ちた言の葉。

今日より貴方様を、心の師匠と呼ばせて頂きます!」

「否々!やめてくれ」

ライアンは声を上げて笑った。

「拙者は弟子は取らん上に、女人の扱い方の指南などもってのほかだ。

しかし、クリフト殿。このライアン、戦士として仲間同士の剣の手合わせならば、いつなんどきなりとも承ろうぞ」

「えっ?」

クリフトはとたんに青くなった。

「いっ、いえいえ、わたしはそちらの方は、まったくの不得手ゆえ」

「そうか?勇者殿ほどとはいかずとも、おぬしも本腰を入れて鍛錬すればまだまだ伸びる。

夜は長い。なんなら、今からでも軽く打ち合ってみるか」

「いえいえいえ、皆様眠っていらっしゃいますからうるさくしてもいけませんし、それはまた!またの機会に…」

クリフトはごまかし笑いを浮かべて懸命に両手を振ると、ふと不思議そうに首を傾げた。

「それにしても……。ライアンさんはまだお独り身でありながら、なぜそのように女心を熟知していらっしゃるのですか?

もしや、郷里に言い交わした恋人でも」

「……さて、どうであろうな」

ライアンは凛々しい口髭の下で、意味ありげにくぐもった笑い声を立てた。

「この身は未だ修行中ゆえ、惚れた腫れたにいそしむいとまはないが、さりとて拙者はわずかながらおぬしより長く生きている。

かつて、月の番人になったことがあるやもしれぬし、はたまたないやもしれぬ。

もはや、遠き記憶の彼方だが」

「な、なるほど……」

それでは、この剣を抱いて生まれてきたような雄々しいバドランドのもののふも、自分のようにいとしいひとを前にして、おろおろと右往左往した過去があるかもしれないというのか。

それはまったく想像がつかないようでいて、しかしその反面、全てを包み込むように器の大きな彼のありように深く納得がいくようでもあり、

クリフトは思わず「月の……番人」と呟いて、赤々と燃える焚き火に照らされたライアンの顔を、物問いたげに見つめた。

ライアンは気づくと、まだ若い神官の青年に向けて、からかうように片目をつぶってみせた。


「そうだ。この世の愚かな男たちは皆。

そして我れらふたりも、共にな」


呟きに誘われるように夜空を見上げると、紫紺色の厚い雲が垂れ込め、今宵は月の姿はない。

仲間の美しい踊り子は、おさなごのようにぎゅっと膝を抱いて、やわらかな寝息を立て続けている。

焚き火の炎が朽ちるまでまだしばらくの間、男ふたりで気楽に過ごすことができそうだ。

ほう、ほう、とまたふくろうが鳴く。

王宮戦士と神官の青年は視線を合わせると、声を立てずに瞳だけで楽しげにほほえみ合った。




ーーFINーー
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